被爆体験記の執筆をお手伝いしています
 原爆死没者追悼平和祈念館では、被爆者の高齢化が進むなか、「被爆の記憶を体験記に残したいけど、自分ひとりでは文章にまとめられない」という方のために、被爆体験記執筆補助事業を行っています。 この事業は祈念館職員が希望者の自宅等に出向いて、被爆体験を聞き取り、体験記としてまとめるもので、平成18年度から実施し、平成28年度までに125人の聞き取りを行いました。 平成29年度は10人の聞き取りを行い、順次、被爆体験記を完成させ、館内で公開しています。 また、企画展やホームページ掲載、多言語化、公的機関への提供等に活用しています。
職員による被爆者の方への聞き取り風景
 被爆の体験は昨日のことのように脳裏から離れることがなく、被爆者の方は当時の悲惨さを記憶の奥から絞り出すように語られます。 今まで心の奥底に秘めていた思い出したくない体験を初めて話される方も多く、特に若い世代に体験を伝え、二度と繰り返してはならいという強い使命感を持って、応募されています。
 今回、執筆をお手伝いさせていただいた体験記から、普喜(ふき)恵身子(えみこ)さんの体験記(抜粋)をご紹介します。
 普喜さんは、13歳の時に尾長町(おながちょう)の自宅で被爆しました。

……練兵場の山裾を通って行きますと、東照宮や鶴羽根神社の辺りでは、やけどや負傷した兵隊さんがずらっと並べられていました。 やけどで体が腫れ、軍服の金ボタンは全部はずれていました。 爆風に飛ばされたのか、手と足を開いて座ったままの姿勢で、目をかっと見開き亡くなっている若い兵隊さんもいました。 私は一瞬その人は生きているのかと思いぎょっとしました。 兵隊さんだけでなく、軍馬も原爆で焼かれて、ひょろひょろと歩いていたり、倒れたりしていました。 馬もかわいそうでした。
 当時はどの家の前にもコンクリートの防火用水槽があって、水が張ってありましたが、その五〇から六〇センチメートル四方の水槽に三、四人の人が顔を突っ込み、膝をついて亡くなっていました。 おそらく、やけどでのどが渇き、水を飲むために水槽に入り、そのまま力尽きて息絶えたのでしょう。 そういう水槽をたくさん見ました。 電柱はまだくすぶってボッボッボッと燃えていました。
 橋のたもとで亡くなっていた小さな子どもは、男の子だったと思うのですが、やけどで体が風船のように膨れていました。 また、防空壕のそばでは5歳くらいの子どもが亡くなっていました。 だれも見てあげる人もなく、何か上に掛ける物もなく、放置されたままの状態で、かわいそうでした。
 やけどした人は、皮膚が剝がれ黒くなって、指先からぶらさがり、まるで幽霊のように歩いておられました。 なぜそうなるのか分からなくて、「あれ、どうしたんかしら?」と思いました。……


 当館では、この事業によるものを含め、現在、約147,000編の被爆体験記を公開しています。

(原爆死没者追悼平和祈念館)

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