和文機関紙「平和文化」No.205, 令和2年11月号

被爆体験伝承者から

熊谷 操(くまがい みさお)さん (平成27年度(2015年度)から活動)
 私の母は救護被爆者(被爆者を救護・看護したため原爆の放射能の影響を受けた人)でした。 母が体調を崩して2週間の入院で亡くなった時、あまりにあっけない母の死に際し、母の人生について何も聞いていなかったことに愕然(がくぜん)としていました。 そんな時、広島市が被爆体験伝承者の養成を始めるということを知り、高齢化した被爆者の「聞いておかなくてはいけない話」、「伝えなくてはいけない話」を「今聞いておかなくてはいけない」と思ったことが、被爆体験伝承者になったきっかけでした。
バンクーバー補習授業校小学校6年生対象の講話

バンクーバー補習授業校小学校6年生対象の講話の様子(2019年12月7日)

 私は笠岡貞江(かさおか さだえ)さん、川本省三(かわもと しょうそう)さん、植田䂓子(うえだ のりこ)さんの3人の被爆体験を継承していますが、講話でお話ししているのは笠岡さんの被爆体験です。
 笠岡さんは、中学一年生の時に被爆され、被爆により両親を亡くされました。 黒焦げになって大八車に乗せられて帰ってきたお父さんの看病をしましたが、8月8日に亡くなり、遺体を浜辺でお兄さんと二人で焼きました。 そして、お母さんとはとうとう会えないまま、後に、お父さんと同じ8月8日に似島(にのしま)で亡くなっていたことを知りました。
 講話では笠岡さんの思いも伝えます。 罪もない友達が、一瞬にして原爆で夢や希望を命とともに奪われたことの悔しい思い。 原爆の恐ろしさ、悲惨さを伝えていくのが生き残された者の役目だと思って被爆体験証言をしているという思い。 被爆者を助けるために活動した外国の人々がいることを知り、「アメリカ憎い」から「原爆憎い」へと変わってきた思いです。 そして最後に、平和な世界を築くために自分にできることを探してほしいという、私のメッセージを伝えています。
バンクーバー補習授業校小学校6年生対象の講話

バンクーバー補習授業校小学校6年生対象の講話の様子(2019年12月7日)

講話を行う熊谷さん

講話を行う熊谷さん(2019年8月3日、バンクーバーの日系人祭『パウウェル祭』で)

 伝承講話をする中で、笠岡さんの思いを深く受け止めていただいた方がたくさんいます。 また、多くの方々に核兵器廃絶への思いを共感していただきました。 2017年から3年間住んでいたカナダのバンクーバーで講話したとき、私の講話に感動してバンクーバーから広島平和記念公園を親子で訪問された方がいました。 現在、コロナ禍で対面での講話が難しくなっていますが、それでも大事なのは実際に対面してお伝えすることだと思います。 広島県内だけでなく、他府県へ出向いて被爆体験伝承講話を広めていくことが必要だと思います。 また、世界への発信も大事だと思います。
講話を行う熊谷さん

講話を行う熊谷さん(2019年8月3日、バンクーバーの日系人祭『パウウェル祭』で)

 聴講していただいた方には、伝承者が語る被爆体験者からのメッセージをしっかりと受け取って欲しい、そしてそれを広めて欲しいと願っています。
 
小林 悟(こばやし さとる)さん (平成27年度(2015年度)から活動)
 広島平和記念資料館には被爆時12歳から15歳の旧制中学校や女学校の生徒の遺品が多く展示されています。 ちょうど今の中学生に当たる年齢の人たちのものです。 特に入学したばかりの1年生が爆心地近くの屋外にいたため、このときの動員学徒犠牲者の大半を占めています。 原爆が投下された昭和20年(1945年)、入学試験を突破して4月に憧れの学校に入学したばかりなのに、戦争のため学校の授業は停止され、生徒は授業を受けることも無く、ましてやクラブ活動を楽しむことも無く、ひたすら毎日空襲(くうしゅう)に備えて建物の取り壊し作業(建物疎開(そかい))や弾薬などの兵器の運搬、兵隊さんの服や帽子、靴をつくる作業に動員されていました。 それもお国のためと、必死に空腹に耐えながら、戦争中の食糧不足により慢性的な栄養失調状態の軍国少年・少女ががんばって働いていたことを思うと心が痛みます。
 私の主に中学校での46年間の教師生活のなかで出会った多くの生徒の姿、特に入学式で入場してくる中学校の新入生の姿と、資料館の遺品を見て想像する被爆当時の生徒の姿が頭の中で重なるときがあり、何ともやりきれない思いになります。 被爆死した彼らの、「安心して普通の学校生活を送りたい!」という願いがかなわなかった無念の思いと、戦争のさなかにあって心から平和を求めた思いを、少しでも多くの次世代の人たちに伝えることができればと心に感じ、私は被爆体験伝承者になろうと思いました。
 私は伝承者の1期生で、中西巌(なかにし いわお)さんの被爆体験を伝承しています。 中西さんは被爆当時、広島高等師範学校付属中学校(現在の広島大学附属中・高等学校)の4年生で15歳でした。 現在の出汐町(でしおまち)に建物が残る陸軍被服支廠(ししょう)で被爆された体験を基に証言活動をされています。
 中西さんは、ほんのわずかな運命の違いで奇跡的に生存され、犠牲になった方々の無念さと平和への思いを今日まで伝えてこられましたが、今では、中西さんのように実際に被爆を体験し、その記憶を語ることができる方たちが高齢となっておられます。 次の世代がその体験を受け継がなければ、被爆という事実が風化してしまいます。 「過ちは繰り返しません」と戦後の人たちは誓いました。 そのためにも、その「過ち」がどんなことだったのかという事実を私たちは正しく知り、後世に伝えなければならないと思うのです。 資料館に展示してある多くの子どもたちの遺品を見るたびに、そのことを彼らが私たちに強く訴えているように思えます。
 私は伝承者として活動していますが、いつも頭から離れないことがあります。 それは、被爆体験「証言者」との違いです。 私は戦後生まれですから戦争体験を持ちません。 「体験していない者が被爆の事実を語れるのか、またその資格があるのか」と問われると、伝承者としてどう答えようかと思います。 しかも「どうしても体験者でなければ伝えられないこともあるという限界」もあります。 中西さんにこの悩みを話すと、「それは気にしなさんな。被爆の実相をまず伝えることが大事ですよ。」と言われ、心のつかえが降りたような気がしました。 おかげで現在も伝承者として、またヒロシマピースボランティアとしての活動ができています。
山口県の宇部市立東岐波小学校での講話

山口県の宇部市立東岐波小学校での講話の様子(令和元年9月20日)

 伝承講話を追悼平和祈念館や資料館で開始したころは、「伝承」ということが聴講者に理解してもらえるだろうかという不安がありました。 しかし、回を重ねるごとに手ごたえを感じるようになりました。 私は、聴講者はどんな年代の人か、どこから来られたのかを把握してから、講話を始めます。 特に中・高生であれば、当時の中西さんとほぼ同じ年代の若者です。 今の中・高生の置かれた状況と照らし合わせて考えてもらうことができます。 また、米軍が原爆投下の練習用に投下した「パンプキン爆弾」の被災都市から来られた聴講者には、この爆弾の話からスタートします。 聴講者にとって広島の原爆は遠い世界の出来事ではなく、身近な問題であることを感じてもらうことに努めています。
 平成30年度(2018年度)から厚生労働省の予算が付いて、広島県外に伝承者を派遣する事業が始まりました。 初めての県外派遣で横浜の中学校に講話に行ったとき、講師が広島から来たということ、そして初めて詳しく原爆の事実を知ったということで、大変な驚きと感謝をもって迎えられました。 この時、この派遣事業は今後ともぜひ発展してほしいと心から思いました。 国の事業でなければ実現できなかったでしょう。 伝承者としてそれだけ意義のある事業に協力できる喜びを感じました。
 現在はコロナのために伝承活動だけでなく色んな活動が制約され、世の中が大きく変わろうとしていますが、こういうときだからこそ、次の世代に被爆の実相を伝えることの大切さを忘れないようにしたいです。
 
髙岡昌裕(たかおか まさひろ)さん (平成27年度(2015年度)から活動)

―伝承者としてのスタートライン―

 私は被爆体験証言者の新宅勝文(しんたく かつふみ)さんと植田䂓子さんの被爆体験伝承者一期生としてデビューし、特に小中学生を中心に講話をしてきました。 新宅さんからは特に「抑揚が大事だ」ということを繰り返し学びました。 また植田さんからは「歴史をきちんと勉強しつつ、将来を担う子どもたちの目線に寄り添い、たくさん興味を持ってもらい、自分で考えることをうながすことが大切だ」ということを学びました。
新宅さん(前列)の誕生日を祝う伝承者一期生

新宅さん(前列)の誕生日を祝う伝承者一期生。後列左端が髙岡さん。(2015年)

 当初は、体験してもいない事実を伝承することなどできるのだろうか、という不安を抱きつつも「証言者の話に共感したことを真摯に伝えていこう」という、いわば熱意だけを胸に活動(=熱弁)をしていたと思います。
 あるとき、秋田大学教育文化学部において、将来教員を志望している学生の方々に講話をする機会をいただきました。 そこで直面したのは、「伝承者も一種の“役者”であらねばならないのでは?」という、いわば新宅さんに何度も言われた「抑揚が足らない」との指摘だったのです。 その夜、秋田大学の外池智(とのいけ さとし)教授とお酒を飲みながら、私のような伝承者はいずれ淘汰(とうた)されてしまうのかもしれない、と押しつぶされそうな不安を口にしたものです。
 その後は、スティーブ・ジョブス氏やテレビ番組「TED」、マイケル・サンデル教授、ひいては落語まで様々なものを題材にした、話法を説く文献をたくさん読みました。 そして、証言者の方の講話の原典を、何度も何度も繰り返し唱読し、被爆前後の歴史に関する文献も参考にしました。
 今では、自分の持ち味である「やさしく落ち着いた口調」を活かしつつ、ジェスチャーもまじえ、適度な“間”をとりながら、当時の情景が思い浮かぶように話をしています。 情景が浮かびやすいと、子どもたちは自分の想像力を駆使して、真剣に平和の大切さを、自分の言葉で考えてくれます。 子どもたちから質問がたくさん出るときには、響くものがあったな、と伝承者としてのやりがいを感じます。 ここにきて、ようやく新宅さんと植田さんから学んだことが血肉となり、伝承者としてのスタートラインに立てたかな、という心境です。
 ちょうどこの原稿を作成している時期に、2021年1月の核兵器禁止条約の発効が決まりました。 この世界に核兵器のない時代が訪れることを願いつつ、これからも倦(う)まず弛(たゆ)まず、地道に伝承活動を行って参りたいと思います。
詳しくは「承継的アーカイブの活用と『次世代教育』 の構築」(2018.02 研究者代表 外池智)参照。
 
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