被爆体験記
閃光・忘れえぬあの日
公益財団法人広島平和文化センター 被爆体験証言者 森田 節子
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プロフィール 〔もりた せつこ〕
昭和7年11月22日生まれ。
広島県立広島第二高等女学校の1年生だった12歳の時、爆心地から約2キロの東練兵場で被爆。
56歳から、被爆を語り継ぐ会や、広島県原爆被害者の会等で被爆証言活動を始め、昨年からは本財団の被爆体験証言者として登録。
海外での平和活動にも参加し、昨年5月にはニューヨークで、今年2月にはパリで、被爆体験証言を行った。
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憧れの女学校に入学したのは、終戦の4ヶ月前でした。
物資不足の戦時下では制服もそろえられなくて、黒い服地に白線2本、白タイに梅の校章。
学年に2組しかない、家の近くの第二県女(広島県立広島第二高等女学校)です。
学校ではじめて夏服のブラウスを縫ったのですが、色は白ではなくて、セーラー服は禁止されていました。
動員学徒(*1)の女子はみんな「もんぺ」(*2)姿です。
8月6日は学校別に場所が決められて、建物疎開(*3)組と農作業組に分かれ、
二年生西組は当時の雑魚場町(広島市役所の近く)に、
他の一、二年生の3組は東練兵場(広島駅の北口の近く)の畠に向かいました。
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連日の重労働で疲れきった私達ですが、8時から草取り作業をはじめました。
その十数分後です。突然するどい閃光と爆風におそわれて、身体は宙に飛んだのです。
数分間は失神していたようですが、気がつくと周囲はうす暗く、煙が漂う中から次々と立ち上がってくる亡霊のような姿に驚きました。
みんな、髪はちじれて、服は上下ボロボロに焼かれて、声もなく震えています。
悪夢をみているようで、私も自分の姿が気になります。
私は両腕が焼かれています。左腕内側は指先まで皮膚がたれ、右腕外側は肘の皮膚が破れ、
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東練兵場(「市民が描いた原爆の絵」森田節子さん作)
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手首から先は水ぶくれで、ズボンの右後ろから裾まで火傷でした。後ろから被爆したのでしょう。
担任の若い女先生も重傷でしたが、
数人ずつ集まって近くの神社(広島東照宮)に避難しました。
水筒の水をかけ合って痛みを抑え乍ら、救援を待っていましたが、誰も来ません。
街中が黒煙と炎にまかれて、
この世とは思われない凄惨な姿の人の群れが、異様な叫び声を上げてこちらの方に近づいてきます。
私達の中で歩けるものが、数班に分かれて、当時宇品にあった学校に向かいました。
市内には入れないので、駅から軍用列車の線路をつたって南へ向かいました。
途中、猿猴川にかかる鉄橋を渡るときは、足を踏み外した人が川に落ちたようです。
川には上流から死体が流れていました。
学校は残っていましたが、建物が壊れていて中に入れず、すぐ隣にあった女子専門学校に助けを求めて入りました。
教室、廊下、運動場の「むしろ」(*4)にも重傷者がいっぱいでした。翌日の午後、救護の車が助けに来ました。
学校の近くの我家は半壊で残っていて、父母は軽傷で生きていてくれました。
私の怪我は、腐った様なにほいのする中で、父母の必死の看病で、3ヶ月位いで治りました。
二年生西組は雑魚場町の建物疎開作業で38名死亡しましたが、その中で1人だけ助かった坂本節子さんは、
映画「原爆の子」(新藤兼人監督。
1952年公開)のモデルになったと言われています。
顔にケロイドが出来た一年生の生き残りは、思春期、青春期をかくれるように生きたそうです。
私は子供に恵まれず寂しい半生でしたが、今は証言活動で子供達と出会って励まされています。
被爆後のおよそ10年間の、私の思春期、青春期の思い出を『「空白の十年」被爆者の苦闘』(*5)という本に書いているので、図書館などで、そちらも読んで下されば幸いと存じます。
(*1) 労働力不足を補うため、工場などの労働に強制的に動員された生徒・学生。
(*2) 足首の部分で裾を絞った、ゆったりした女性用作業ズボン。
(*3) 空襲により火災が周辺に広がるのを防ぐために、あらかじめ建物を取り壊して、防火地帯を作ること。
(*4) ワラなどの草で編まれた敷物。
(*5) 2009年、広島県原爆被害者団体協議会発行。広島県内の主な図書館や大学に寄贈された。
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昨年5月、ニューヨークの国連本部内で開かれた原爆展で証言活動を行う森田さん(左から2番目)
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