国立広島原爆死没者追悼平和祈念館では、被爆の実相を伝えるため、毎年テーマを定めて企画展を開催し、被爆体験記や追悼記などを展示しています。
今回は「さし出された救いの手」と題し、被爆の惨状
(さんじょう)の中で助け合う人々の様子を紹介しています。
昭和20年8月6日に投下された原子爆弾により、広島の街は一瞬にして壊滅的な被害を受けました。
瓦礫
(がれき)の下で助けを求める人、瀕死
(ひんし)の状態で逃げ惑まどう人、皆が我が身のことで精一杯でした。
こうした中でも家族や友人、あるいは見も知らぬ人のために必死で救出活動をする人や、貴重な食べ物・衣服を提供する人、寝食を忘れて看護に携
(たずさ)わる人々がいました。
火の迫る中での救出、思いもかけぬ親切、必死の看護。
苦しい時にさし出された救いの手は、希望を失いかけた被災者に生き抜く勇気を与えました。
今回、展示している被爆体験記の中から、南恭子
(みなみ きょうこ)さんと 山中恵美子
(やまなか えみこ)さんの体験記(抜粋)をご紹介します。
南さんは当時7歳、路上で遊んでいる時に被爆しました。
……私が7歳の8月6日、朝は晴天で太陽がぎらぎらと輝き、目にはまぶしく暑い一日が始まっている。
父と長男は兵隊にとられて、家には居ない。
母は勤労奉仕に行った。
私は8時頃から、子供達がよく遊びに行く、近くの風呂屋に行って4~5人、道路で遊んでいた時である。
原爆が投下された瞬間に吹き飛ばされて、家の中で気がついた。
黒煙で真っ黒で何も見えない。
しばらくすると、小さな光がわずかに目に入ってきた。
その光を頼りに歩いて行くと、格子戸の玄関であった。
外に出ると、すでに狭い道は瓦がいっぱい散乱し、歩くにも困難な状態で人々は泣き呼び、大人も子供も流血し火傷で顔の皮膚がずるりとむげ、ぶら下がっている。
又、背中や腕足も水泡ができた人々で、右往左往と走っている。
私も何が何か分からず、人の後をついて走った。……
「市民が描いた原爆の絵」
中野健一(なかの けんいち)さん作
山中さんは当時11歳、切れた下駄(げた)の鼻緒(はなお)を継つげている時に被爆しました。
……はっと気が付いた途端、私は「助けてぇ、助けてぇ」と叫びました。
すると軍靴を履き、黒いゲートルはぼろぼろで、前掛けを掛けたようなおじさんが「どこじゃあ、どこじゃあ」と言って声をかけてくれました。
私は埋まっていたので、おじさんの足元と前掛けがぶら下がっていたことだけを覚えています。
「おじさん、助けてぇ、助けてぇ」と言ったら、おじさんが瓦礫をのけて、手を差し伸べて下さいました。
私がおじさんの手をつかむと、手の皮がズルッとむけました。
腐りかけたバナナを持ったら、ジュッと抜けるような感覚で、とても嫌でした。
そうしたらおじさんがお互いの指を引っ掛け合うようにして引っ張り出してくれました。
その時は助かってよかったと思うだけで、お礼も言えませんでした。……
この体験記の全文は、当館の体験記閲覧室もしくは当館の
ウェブサイトをご覧ください。
会場では、体験記とともに、被爆者が描いた絵や衣服などの被爆資料も展示しています。
また、体験記を、関連する写真や絵を用いた映像と音声で紹介し、被爆の悲惨さを訴えています。
この映像については、過去の企画展で制作したものも含め、体験記閲覧室でも観ることができます。
被爆者の「こころ」と「ことば」にふれてください。