“平和について思う”
()()()()を忘れまい

広島県原爆被害者団体協議会 理事長 坪井 直
プロフィール
〔つぼい すなお〕

大正14年(1925年)生まれ。 旧制官立広島工業専門学校(現在の広島大学工学部)の学生だった20歳の時に被爆。
元教諭で、昭和61年(1986年)に広島市立城南(じょうなん)中学校長を退任後、 被爆者運動に加わり、国内外で被爆体験講話等を通じて核兵器廃絶と世界平和を訴えている。 日本原水爆被害者団体協議会 代表委員、広島県原爆被害者団体協議会 理事長、広島平和文化センター評議員。 平成23年(2011年)谷本清平和賞を受賞。

被爆の体験
今から66年前の8月6日、20歳の学生だった私は爆心地より約1キロメートルの市役所付近の路上で被爆しました。
  突き刺すような銀白の閃光(せんこう)を感じながら、約10メートル飛ばされ意識を失いました。 約10分後に気がついた時、上・下衣とも半ば焼失し、顔面は無論、全身が火傷(やけど)で、 耳たぶはちぎれぶらさがり、両唇も()れあがっていました。 衣服の燃えるのを払いながら、半裸・半ズボンで火の海と化した街中を脱出の当てもなく、さ迷い続けました。
  瀕死状態の私は終戦の記憶が一切ありません。 翌年の夏になってやっと、よちよち歩きができるようになりました。 その後、3度の危篤(きとく)状態を含め12回の入退院を繰り返しましたが、まさに九死に一生を得ました。
  現在は慢性再生不良貧血で悩み、2つめのガンで苦しみ、狭心症(きょうしんしょう)に脅かされています。 そのため2週間に1度、点滴注射が必要なのです。 しかも、精神的な不安・苦痛は自身だけに終りません。 子や孫にまで及ぶ心配で居ても立ってもいられません。 体・心・暮らしの破壊に、心の底から義憤(ぎふん)を感じます。

核兵器廃絶への活動
被爆体験を原点として、被爆者の一人として、核兵器廃絶の悲願達成に努力を続けています。
  国内での被爆の実相普及のため、小・中・高校生への講話は勿論(もちろん)のこと、 市内を始め他府県での成人者への集会に参加し、平和への訴えを続けており、そのために愚者の身を(むち)打っています。
  外国での活動は、ヨーロッパの国々を始め、アフリカ、中東・東南・北東のアジア(北朝鮮を含む)や8度目のアメリカ等に及びます。
  また、2010年5月のNPT再検討会議には、被爆者50名が渡米し、国連内での「原爆展」や「被爆体験証言活動」等で核兵器廃絶と不戦の世界建設を訴えたものです。私も同行しました。
  さらに、本年(2011年)3月には、中国人民平和軍縮協会との平和交流のために北京(ペキン)に行きました。 私としては21回目の海外交流となりました。有意義であり自負を感じています。
  ところで、東日本の大震災を北京で詳しく知り、驚きは勿論、緊張もこの上なく、天災・人災に心痛しました。 特に、福島第一原子力発電所の事故について不安が募りました。 核の平和利用でIAEA(国際原子力機関)の強化は勿論のこと、地球全体の課題として、(・・)から(・・)への深慮(しんりょ)を痛感します。 原子力発電に頼らぬ道を世界は求めるべきです。
  核についての諸問題解決策が、米・ロ中心から国連の諸機関に移行し始めたのが喜ばしい。
福島の原発問題等について、松井広島市長(前列右)と会談(2011年6月30日)
私の決意
私たち被爆者は高齢化し、病弱化がますます進んでいます。 しかし、恨み、憎しみ、報復の気持ちを乗越え、人類の幸せ、世界の平和のため、 緊要事(きんようじ)として核兵器廃絶の道をまっしぐらに歩んでいます。
  人類は愚かではありません。 国境を無くし、民族・人種を人間にまとめ、政治・経済の体制が和合され、教育・宗教に光明が見出され、香り高い文化に、真の平和が保障されます。
  感情による対話では戦争を避ける事はできず、理性・英知による対話でこそ平和が約束されます。
  核兵器の最後の一発が無くなる日まで、その日をこの目で見るまで、皆さんと共に頑張りぬきたいと思います。
  私たちは、何時如何なることが有っても決して(あきら)めてはなりません。
  Never give up !
(平成23年11月寄稿)
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