シュモーハウスがオープン
‐被爆後の広島に寄せられた海外からのさまざまな支援を伝える展示施設‐
平成24年11月1日、中区江波(えば)に広島平和記念資料館の附属展示施設として「シュモーハウス」が開館しました。 「シュモーハウス」の名前は、米国のフロイド・シュモー氏に由来します。 シュモー氏は、広島・長崎への原爆投下に心を痛め、住まいを失った広島の人々のために家を建てる活動を進めました。
  「シュモーハウス」は、昭和26年(1951年)に集会所として建てられて以来、地域活動の拠点として活用されてきました。 広島南道路の整備に伴い、集会所としての役割は終えましたが、平成24年(2012年)に南東約40メートル離れた場所から現在の場所に曳家(ひきや)移転して保存され、 被爆後の広島に寄せられた海外からのさまざまな支援を伝える展示施設として生まれかわりました。
  展示では、シュモー氏の「広島の家」の建設活動のほか、被爆直後の医薬品の提供、肉親を失った子どもたちへの援助など海外からのさまざまな支援を紹介しています。 国を超えて寄せられた善意とそこに込められた思いはどのようなものだったのかを知っていただければと思います。
曳家移転し、展示施設としてオープンしました
■所在地:広島市中区江波二本松1丁目2番43号
■開館時間:午前9時〜午後5時
■休館日:毎週月曜日(8月6日に当たるとき、また祝日の場合も開館)、祝日の翌平日、
       年末年始(12月29日〜1月3日)
■観覧料:無料
■交通案内:駐車場はありません。
        JR広島駅(南口)から約50分
        ・市内電車/江波行で終点「江波」下車 徒歩約10分
■展示解説:1グループ10人以内。所要時間約30分。申込みは希望日の2週間前までに
        広島平和記念資料館学芸課(TEL:082-241-4004)へ
昭和20年(1945年)8月、原爆により街は焼き尽くされました。 食糧や衣服などの生活物資や住居は不足し、広島市民は苦しい生活を強いられました。 また原爆による傷害に苦しみ、家族や友人を失った悲しみから孤独や絶望感を抱くこともありました。
  こうした被爆後の状況の中、生活を取りもどすための市民自身の地道な取り組みに加え、国内だけでなく海外からもさまざまな支援が寄せられ、物質的にも精神的にも人々の大きな支えとなりました。

広島の家
スタートした計画
米国シアトルに住み、大学の森林学の講師であったフロイド・シュモー氏は計画を「広島の家」と名付け、募金により住宅建設のための資金を集めました。 昭和24年(1949年)7月、シュモー氏はエメリー・アンドリュース氏ら3人の仲間とともにガラスやクギなどの建築資材を携えて広島へと向かいました。
皆実(みなみ)町の住宅
シュモー氏たちは、皆実町に木造平屋建ての二軒長屋2棟を建設することになりました。 大工の棟梁(とうりょう)1人を雇い、日本人のボランティアの協力を得て、「広島の家」を建て始めました。 暑いさなかの作業でしたが、建設は順調に進み、最初の住宅が完成しました。
活動は続く
「広島の家」の建設は続き、江波皿山(さらやま)のふもとには昭和25年(1950年)から昭和27年(1952年)にかけて毎年、家が建てられ、 地域の人々のための集会所(現在のシュモーハウス)も建設されました。

作業に使用したハンマー
寄贈/山本勇三(ゆうぞう)
     写真や模型で「広島の家」を紹介しています

皆実町での住宅建設
提供/シュモーさんの「ヒロシマの家」を語りつぐ会
  「広島の家」計画により合計15棟(21戸)の建物が建設されました。 国や人種を超え、多くの人々が協力して進める家づくりにより、戦争で失われたお互いの心を思いやる気持ちが育まれました。
広島に寄せられたさまざまな支援
被爆直後の救援活動
赤十字国際委員会駐日主席代表のマルセル・ジュノー氏は、広島の救援のために連合国最高司令官総司令部(GHQ)と交渉し、多量の医薬品を入手。 9月上旬、医薬品とともに自らも広島へ赴き、市内の救護所を視察し、診療にあたりました。
精神養子運動
精神養子運動は、海外の市民が肉親を失った広島の子どもたちと私的な養子縁組を結び、養育資金を送付するというものです。
  ノーマン・カズンズ氏が主筆を務める「土曜文学評論」への掲載が反響を呼び、全米各地から申し込みがありました。 昭和25年に最初の養育資金2,000ドル(当時72万円)が広島市に届きました。
  その後、世界平和と広島での福祉事業を進める「ヒロシマ・ピース・センター」の米国協力会が募集の窓口となりました。
渡米治療
やけどのあとが盛り上がるケロイドは、肉体的な痛みだけでなく、精神的な苦痛ももたらしました。
ニューヨークの病院でのケロイド治療
提供/横山(あい)
  女性たちのケロイド治療は国内だけでなく、海外へも広がり、昭和30年(1955年)に渡米治療が実現しました。
平和巡礼(じゅんれい)と「ワールド フレンドシップ センター」
バーバラ・レイノルズ氏は、被爆者が体験を語り核兵器廃絶を訴える「平和巡礼」を計画しました。 米国とヨーロッパの都市を(めぐ)り集会や講演を行いました。 また、互いの理解と友好の輪を広げ、被爆の実相を海外へ広く伝えるため、昭和40年(1965年)に、「ワールド フレンドシップ センター」を設立しました。 センターでは、現在も海外から広島を訪れる平和活動家のために宿舎を提供し、被爆者を支援する活動が行われています。
世代を超えて
開館前日の平成24年10月31日、広島市長や江波連合町内会長をはじめ、米国からもフロイド・シュモー氏の次男のウィルフレッド・P・シュモー氏ら関係者が出席し、開館記念式が行われました。
  記念式のスピーチの中で、ウィルフレッド・P・シュモー氏は、 「父親がもしこの場にいれば、皆さんがシュモーハウスを残してくれたことこそ一番の栄誉(えいよ)だと話したに違いないと思う。 なぜなら、このシュモーハウスは世代を超えてこの場所に残っていくからだ。」と語りました。
  スピーチから「シュモーハウス」はフロイド・シュモー氏にとって、希望の象徴であったことが改めて実感できました。
  多くの方に「シュモーハウス」に来館いただき、一人一人の思いが平和な世界を築く力になることを感じていただければと思います。
開館記念式でスピーチを行うウィルフレッド・P・シュモー氏

(平和記念資料館 学芸課)

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