被爆体験記
原爆死没者の願を背負って
ノー モア ウォー,ノー モア ヒロシマ

本財団被爆体験証言者 井口 健
プロフィール
〔いのくち たけし〕

1931年、宮島(みやじま)生まれ。1958年、中央大学法学部卒業。同年、広島市上級行政職試験合格。 就職後、文部省より社会教育専門職資格取得。主として平和文化、国際交流・青少年健全育成等コミュニティー分野に取組む。 退職後、世界文化遺産厳島(いつくしま)神社の総代4期、宮島町議会議員2期当選(廿日市(はつかいち)市と合併前)。 2001年、宮島ユネスコ協会設立に当たり、発起人チーフとして参画。現在、会長4期。 近年、海外23ヵ国を4ヵ月間訪問し、被爆体験証言活動に取組む。

非常時の少年時代
昭和20年8月6日は、朝から真夏の厳しい日差しを受けていました。
  私は旧制山陽(さんよう)中学校の2年生で、14歳でした。 現在も宮島に住んでいますが、当時から宮島に住んでおり、天満町(てんまちょう)にあった軍需(ぐんじゅ)工場「東洋製缶(とうようせいかん)」(爆心地から1.5km)に、8月2日から学徒動員(がくとどういん)に出ていました。 この頃の日本は、学生や生徒も戦争に必要な物資を作るため、みんな工場に駆り出され、朝から晩まで作業をしていました。 私の動員先の「東洋製缶」は、戦場に送る缶詰の缶を作る作業をしていました。
  その日は、学徒動員に出始めてからちょうど5日目で、毎日の厳しい実習でみんな疲れ気味でした。 私が朝、「休みたい」と言うと、母は「弁当を作ったから、元気を出して頑張りなさい」と私を励ましました。 この頃は食糧難でしたから、手作りの弁当は大変貴重で、有り難かったのです。 私は母の思いに添いたいと思い、すぐにいつものとおり支度をしました。
  私は、国防色の制服と帽子(今はカーキ色と言いますが、茶色がかった黄色で、陸軍の制服の色です)、ゲートルと言って足のひざ下まで布を巻き、 爆弾が落ちた時に頭と顔を保護するために目だけ出した状態にしてかぶる防空頭巾(ずきん)と弁当を持って、 7時10分発の船に乗り、対岸の宮島口から広島行きの広電(ひろでん)に乗りました。 広電とは広島電鉄のことで、広島市内を走っている路面電車で、今も宮島線は宮島の対岸の宮島口と広島間を運行しています。 私は広電で30分くらい乗ったところにある己斐(こい)駅(現在の西広島駅)で降りて、友達3人と出会い、徒歩15分くらいの所にある会社の正門まで一緒に歩きました。

今もトラウマが続く、あの被爆体験
工場に着いてから、私はすぐにトイレに行きました。 それから8時20分に点呼がある大集会室へ向かって歩きました。
  大集会室の入り口の約1m手前の所で、ちょっと空を見上げた瞬間、突然、眼もくらむようなオレンジ色をしたピカッと強烈な閃光(せんこう)を受けました。 そのショックで入口の中へ()うようにして入った途端、ドカンという物凄い地響きで大集会室が崩れ、みんな下敷きになりました。 とにかく部屋の中は真っ暗闇で、空気も臭く、息苦しくなりました。私はそのまま無意識状態になり、気絶しました。

一体何時なのか時間はよくわかりませんでしたが、大集会室の下敷きになった約150人の生徒の中から誰となく、「助けてぇ、助けてぇ」と友達の名前を呼ぶ者、母親を呼ぶ者がいて、悲痛な声が響き渡りました。 工場全体に火の手があがり、私達が下敷きになっている大集会室も燃え始め、私はその熱風で目が覚めました。 気がついてみてみると、あの広い大集会室の東側にいた同級生150人が、西側の隅へ先ほどの爆風により吹き飛ばされ、机や椅子と一緒に人と人が何重にも重なり合っている状態でした。
  上のほうに積み重なっていた生徒が机をはねのけ、下に重なっていた生徒も出ることができました。 みんな、火の海の中、どちらへ逃げるか必死でした。 その建物は河岸に立っており、窓から河川敷(かせんじき)に飛び降りることができました。 高さは10mくらいありましたが、ほとんどの生徒がそこから河川敷に飛び降りました。
  私は先ほどの閃光で目を痛め、かすんでよく見えなかったのですが、命には代えられないと決断し、飛び降りました。 しかし、飛び降りたところには建物疎開(たてものそかい)の廃材の板があり、そこには5cm〜10cmの釘が何本も上を向いた状態だったのです。 その時、私は地下足袋(じかたび)を履いていたのですが、その上から足に釘が刺さりました。 その釘を抜いた時の痛さは泣きたいくらいでした。

河川敷一帯を見ると、そこで建物疎開作業をしていた約200〜300人の人々の背中の皮が全部()がれ、腰からぶら下がっていました。 皮を剥がれた背中からは、生き血がいく筋も流れていました。 顔面を火傷した人々を見ても、その顔は人の顔には見えませんでした。 爆風で飛ばされて大けがをした人々、建物の下敷きになっている人々、二重苦、三重苦で気絶している人々、また、「水を下さい、下さい」と右往左往している人々、その状況はこの世の地獄のように悲惨でした。

私は、とにかくそこから早く逃げて家に帰ろうと、立ち上がりました。 顔から汗がでているのかと思ってハンカチで()いたら、ハンカチが真っ赤な血に染まりました。 しかも、顔面を拭くだけで大変な痛みを感じました。 その時私は頭や顔面に無数のガラスなどの破片が突き刺さっており、頭や顔からどんどん出血していたのです。 このままでは血が目に入り込み、目が開けていれない状態になりはしないかと大変心配になり始めました。

「市民が描いた原爆の絵」/にげまどう被爆者たち(福島橋東詰の川原)   作者/玉田 吉之助(たまだ きちのすけ)

なんとしても早く家に帰りたいと思い、近くに転がっている棒を拾って一歩一歩歩き始めました。 足の痛みをこらえながら、10mくらい行っては休み、今度は20mくらい行っては休むといったように歩きました。
  途中、橋を渡って家に帰るのですが、その橋は落ちていました。広電の鉄橋の枕木のあちらこちらが燃えており、そこを這いながら渡りました。 また、路上に倒れている多くの人々は大火傷をしていて、年齢もわからない女性が「水、水」とうめいていました。

私が被爆した場所辺りから救護トラックで収容された多くの人々の中に、幼い子どもがいました。 その子どもが歩いている私に向かって「水、ちょうだい」と言いました。その時、私は自分のことを忘れて涙が止まりませんでした。 大人から「水をください」と言われるのとは何か違って、幼い子から「水、ちょうだい」と言われた時は、何とも言えないくらい悲しくなりました。
  また、瓦礫(がれき)の上一面は、すでに炎があちらこちらあがっていて、どこが道路かよくわからない状況で、倒れた電柱の電線が散乱している上を地下足袋で歩きました。 とにかく、宮島に向かう電車が出ているだろうと思い、己斐駅を目指して一生懸命、足を引きずりながら歩きました。
  だんだん一緒に歩く人が増えてきました。 血まみれの人、全身火傷を負っている人、その人たちは人間というよりは、どう言ったらよいのでしょうか。幽霊のようでした。 大勢の人々が、ほとんど1mおきくらいに歩いていました。
  私は足に怪我をしていたので、皆さんと一緒には歩くことが出来ず、ゆっくり、ゆっくり歩きました。 頭や顔面から流れている血が目の中へ入るのをぬぐいながら歩き、やっと、己斐の映画館が炎上しているのが見える所まで来ました。 その時に(さみ)しさを感じた反面、よくここまで歩いたという安堵(あんど)感がわきました。 そこまでは普通15分で歩いて行けるところですが、3時間かかりました。

すると、急に空が暗くなり、大粒の黒い雨が降り始めました。それは、体に当たるとちょっと痛いような感じの雨でした。 その雨で、顔面の血がボロボロに破れた制服とズボンに流れ、体全体が血一色になり、途方に暮れていたら、 救援トラックで中年の男性が通りかかり、「これに乗りなさい」と声をかけてくれました。 私は、近くにいた被爆者数人と一緒に乗せてもらい、臨時の救護所(ちょど宮島線の古江(ふるえ)駅辺り)へ連れていってもらいました。 その時は、本当に神様に出会ったようで、有り難くて涙が止まりませんでした。
  救護所では、ほとんどの人が重症患者で、今にも死にそうな人が沢山いました。300人くらいの人が、みんなむしろの上に寝かされていました。 私は、まず顔面と頭部を消毒してもらい、大・小たくさん突き刺さっているガラスのうち、出血のひどい箇所を何本か抜いて、包帯をしてもらいました。

その後、荒手(あらて)駅(現在の草津南(くさつみなみ)駅)から宮島行きの電車が出ていると聞いたので、 また元気を取り戻し、その駅を目指して歩き始めました。
  途中、農家で「水を飲ませて下さい」とお願いして、いろいろ話をしていると、その家は友達の増田(ますだ)君の家でした。 増田君のお父さんとお母さんが「うちの子はまだ帰りません」と言われ、私も増田君のことが心配になりましたが、 私はその家を出て、再び自分の家へ帰ろうと歩きはじめました。
  途中、気分が悪くなり、防空壕(ぼうくうごう)の中で黒いものをたくさん吐いて、多少すっきりした気持ちになりました。 そしてその後、荒手駅の電停で同じ動員先の友人2人と出会い、お互い命が助かったことを喜び合いました。
  後日、増田君は東洋製缶で逃げ遅れて亡くなったと聞き、増田君のお父さんとお母さんのことを大変気の毒に思い、何と言ってよいかわからない気持ちになりました。
  荒手駅から電車に乗り、宮島に着くと、両親が迎えに来ていました。 両親は、私の包帯した姿を見てびっくりしましたが、同時に、助かって帰ってきたことを喜んで、涙ながらに抱き合いました。

今も続く苦しみ
自宅に帰ったその夜から、発熱、下痢、脱毛などの急性症状が2週間以上続きました。 医者が来ても、特に薬らしいものもなく、ただ家庭の常備薬を飲んで安静にしていました。 頭と顔のガラスを取ってもらい、消毒して薬をつけてもらうのにも2週間くらいかかりました。
  被爆前は視力が1.5ありましたが、原爆の閃光で眼がかすむようになり、両眼に眼帯をしたままでした。 また、避難する時に工場から河岸へ飛び降りて、足・ひざ・腰を痛めたので、家の中を歩くのが精一杯の状態でした。 当時は米などは配給制で、野菜も公園などで自給自足している状況でしたので、食べ物も十分になく、体の栄養状態が悪く大変でした。
  その後もまだまだ空襲警戒警報が終戦まで一週間くらい鳴り響き、不安と恐怖が続きました。 とにかく被爆以来、精神的外傷性ストレスが続き、これにはかなり長期的に悩まされました。

私の家の前にある大きなお寺が救護所になり、毎日毎日、重症患者が運ばれてきました。 8月9日頃には500人くらいいたと思いますが、盆前12、13日頃までには、ほとんどの人が苦しみながら亡くなられました。 医師が数人付きっきりで手当し、宮島に住んでいる人々も看病を手伝い、いろいろ手を尽くしましたが、何とも手のほどこしようがなく、毎日毎日亡くなっていきました。 「なぜ、こんな目に遭わねばならぬのか」と泣き叫んでいた人もいたそうです。 「まさに戦場の病院のようでした」と私の母も言っていました。
  私の家は、そのお寺の道路を(へだ)てた前にあり、私は2階で静養していました。 日中はセミが鳴いていて、うめき声は聞こえませんでしたが、夜静かになると被爆者のうめき声、悲痛な叫びが一斉に聞こえてきました。 その声を聞きながら、夜通し眠れない日が続きました。
  その時私は心から思いました「なぜ人は人を殺すのか。なぜ人間は戦争を止めることができないのだろう。」 こんな当たり前のことは、いろんな人がずっと考えてきたことだと思いますが、人類は戦争の歴史を繰り返してきました。 そして地球上に悪魔の兵器、原爆がとうとう出現し、人類史上初めて、昭和20年8月6日午前8時15分、広島に投下されました。 私は、「戦争反対! 原爆を二度と繰り返すな!」と絶叫したい気持ちになり、私はそのまま夢の中でも絶叫しました。 朝、目が覚めて、お寺の方へ向って、心の中で何度も叫びました。

平和についてのメッセージ
あの8月6日の8時15分、原爆の熱線と放射線が一瞬に四方へ出され、熱によってまわりの空気が大きくふくらみ、爆風となってひろがりました。 それらが複雑に作用し、広島の市街地は全滅的な打撃を受け、焼け野原となり、多くの人々の命を奪いました。 多くの人々は大火傷を負い、血まみれになって見る影もない姿で「水、水下さい」と叫びながら、川に飛び込んでそのまま死んでしまいました。 また、人々は苦しみもがいて、親は子を呼び、子は親を呼びながら息絶えていきました。 まさに、悲惨極まるこの世の地獄絵のようでした。
  また被爆後、継続しておこる原爆症により、苦しみながら亡くなっていく人々も沢山いました。 67年以上経った現在も、後障害や原爆症で苦しんでいる人々が沢山います。

私は動員学徒として被爆しましたが、生き残った者として、被爆後67年以上、現在に至るまで、「二度と広島を繰り返してはいけない」とずっと考え続けてきました。 近年、私は海外(23か国)を4か月間訪問し、被爆体験証言活動に取り組みました。 その時感じたことも踏まえ、私の世界平和についての思いをお伝えします。
  ユネスコ憲章の前文に「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という言葉があります。 この意味は、一人一人の命を大切にすることこそが平和(戦争のない、核兵器のない世界)につながるということです。 そのためには、まず、平素から人の心と心の関わり、ふれあいを大切にすることです。
  1.人を思いやる心、2.人の痛みがわかる心、3.人を信じることが出来る心、4.相手の立場に立って考える心、5.国際交流(異文化交流)等で、お互い各国の習慣、生活、文化等いろいろ知り、認め合う心。
  そういうふれ合いから気持ち(心)が通じ合うようになれば、何かもめ事があった場合でも、その原因をはっきりさせ、お互いの差異を認め合うことで、目の前の小さな平和が世界の平和につながっていくと思います。
  人間を地獄に落としいれる悲惨な原爆を二度と繰り返さぬよう、「使わせないように、作らせないように、持たせないように」、これからの世界平和を担う皆さん、私の被爆体験や思いを一人でも多くの方々に引き継いでください。
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