被爆体験記
無くそう争い事は
本財団被爆体験証言者 田川 康介
|
|
プロフィール
〔たがわ やすすけ〕
1928年、旧御調郡木ノ庄村(山村)生まれ。
16歳の時、学徒動員で国鉄に働き、以来38年余国鉄に勤続。
退職後バスセンター、シルバー人材センターの業務に従事。現在に至る。
浅学非材なれど人一倍争いを嫌う。
|
|
|
太平洋戦争中の少年時代
私が15歳の時、実業学校生(広島県糸崎鉄道学校)であっても、戦争の真最中で勉強どころではなく、工場や軍事産業に動員されて働くことが学業の一環だと言われ、何をするにも軍や警察の言う通りにさせられ、それが当り前だと教え込まれて生活していたので、何の不満も感じない時代でした。
16歳の終りに広島第一機関区に動員され、17歳になっても卒業式もせぬまま、ずっと働き続け、あのいまわしい8月6日を迎えたのです。
私は朝早く、広島県東部の糸崎駅で交代の乗務員として乗車し、1時間近く遅れて広島駅に着きました。
機関車を交換して区に帰り、終了点検をすませて上司に報告して、平服に着替えて広場に出た時です。
地獄のさまを目の前に!!
「ピカッ」と、ものすごい閃光・熱光が西方に走り、思わず両手で顔を押さえました。
手の甲がチリチリ痛かったので、何が何だか分からないまま、東へ向かって逃げようとした時、「ドカン」とものすごい爆風が来て、6メートルくらい吹き飛ばされ、散髪屋の中へ押し込まれました。
頭の上からガラスや壁土が落ちて来て、どうなるだろうと不安でしたが、目の前がボーッと明るくなってきたので、散髪屋の中の人と瓦礫をかき分けて外に出ました。
まず逃げる方法は、と思い、広島駅に行ってみました。
ところが駅舎は倒れ、ホームの鉄骨も曲がって、列車も脱線しているので、駄目だと分かりました。
広島に家を借りていたので、どうなっているかと思い道へ出た時です。
|
西の方から逃げて来る大勢の人は、皆、裸で大やけど。
皮膚が焼けただれてズルむけで垂れ下がり、「助けてぇー、痛いよう、水を下さい・・・」。
その中に赤ちゃんを背負った母親がいたのですが、赤ちゃんは半分溶けて母の背にくっついているのです。
もちろん赤ちゃんは亡くなっています。
とにかく皆、一様に裸で、「水をくれ、水が欲しい」と言いながら夢遊病者の様にトボトボと西から逃げて来るのです。
当時、町中には防火水槽といって、直径も高さも1メートルくらいのコンクリートの水槽が20メートルおきにありましたが、夏ですからボウフラがウヨウヨ泳いでいました。
そこへ、とにかく水を求めて、7、8人が頭を突っ込んだまま亡くなっているんです。
見ていられない様です。
|
広島駅(1945年10月頃)
撮影 川本 俊雄/提供 川本 祥雄
爆風で張り出した待合室は倒壊。本体の屋根は押し下げられ変形破損。その後、駅舎は全焼し、多数の死傷者を出したが、翌7日には宇品線、8日には広島・横川間、9日に山陽本線、芸備線が開通。10日には駅事務所がバラックに急造され、救護隊の入市や被災者の脱出の助けになった。
|
猿猴川まで来ると、両岸にはずらりと、川の水を飲もうとして、そのまま亡くなった人の列です。
本当に地獄とはこういうものかと、目を覆う気持ちでした。
再入市して二次被爆
借りていた家は火災で無く、とにかく東へ逃げようとしていた時、被災者を東へ運ぶ列車があると聞き、貨車を操車するヤードに行くと、貨物列車が7両待っていました。
逃げて来た多くの人を乗せて、私も乗り、9時半に発車して、1時間余りかかって糸崎駅まで運転しました。
駅前の丘の上には当時、軍事工場の大きな病院が2棟あり、皆そこへ収容されました。
私はさらに東の田舎の実家に帰り、10日間、けがを治しました。
その間に、台風が広島県を直撃しました。
被爆の火災は消えましたが、後が大変でした。
私は親から「もう広島へ帰れや」と言われ、母親にむすびを4食作ってもらい、朝4時に実家を出て、台風のため山陽線がいたるところ流されているので、ほとんど歩いて広島まで帰り、着いたのは夕方の7時でした。
しかし、線路が流されて列車が走れないので仕事は無いと言われ、これまた10日間くらい寝るところもない状況でした。
当時の広島では、放射線がどんな恐ろしいものか誰も知らないから、広島に働きに出て亡くなられた人々の消息をたずね、近隣から次々に入市して、残留放射能におかされて、後日、様々な病状が出たり、亡くなられた方が多かったと聞きました。
私もその1人で、被爆当時は若く健康でしたが、15年目頃、被爆性網膜症になり3カ月間苦しみました。
25年くらい過ぎた頃、甲状腺が腫れて、それまで歌が上手かったのに声がかすれるようになり、今でも固い物がのどを通りにくくなりました。
また、80歳になった時、鼻の横にポツンと点の様なシミが出来、だんだん大きくなって小豆くらいに膨らみ、ガンだと言われて手術をしました。
放射線の恐ろしさをしみじみと体感しています。
友よ、先輩・後輩の霊よ安らかに
私と一緒に家を借りていた友人は、8月6日の朝、家でぐっすり寝ていて、家の下敷きになったまま火災で亡くなり、よくしてくれた先輩も次々亡くなり、悲しい思いをしました。
また、2歳若い後輩は爆心地から1.2キロメートルのところで被爆し、全身やけどで、病院で治療して一応仕事には戻りましたが、顔面がケロイドで、話すのもつらそうでした。
少しずつ皮膚を削る手術を繰り返し、何とかきれいになり喜んでいましたが、42歳で病気で亡くなりました。
これもまた、見ていてつらい思いでした。
このような原爆の恐ろしさは、未来まで伝えていってほしいことであると同時に、核はゼロにして欲しいという願いでいっぱいです。
亡くなられた多くの人々の霊よ、安らかに、と祈りながら筆を置きます。
|