平成25年 追悼平和祈念館企画展
ヒロシマ復興への歩み ―被爆後の混乱を生き抜く―
  国立広島原爆死没者追悼平和祈念館では、被爆の実相を伝えるため、毎年テーマを定めて企画展を開催し、被爆体験記や追悼記などを展示しています。
  今回は「ヒロシマ復興への歩み―被爆後の混乱を生き抜く―」と題し、被爆後の混乱の中を生き抜いた人々の姿と復興の歩みを体験記を通じて紹介しています。
  昭和20年8月6日、一発の原子爆弾により広島の街は一瞬にして破壊され、多くの(とうと)い生命が無差別に奪われました。 原爆で家族を失い、自らも傷ついた人々は、食糧や物資の不足に苦しめられ、放射線の後障害(こうしょうがい)におびえながらも、生活再建へと歩み始めました。
  今回、展示している被爆体験記の中から、堀本(ほりもと)春野(はるの)さんと浜井(はまい)信三(しんそう)さんの体験記(抜粋)をご紹介します。
  広島電鉄家政(かせい)女学校で勉強しながら路面電車の車掌(しゃしょう)をしていた堀本さんは、原爆投下の3日後に復旧した一番電車の車掌を務めました。
・・・先生が「今日から市内電車が運行するので、誰か乗務して下さい」と言われました。 専攻科の人殆どの中で、二年生の電車勤務だった私が行く事になりました。 己斐(こい)の宮島線の詰所に行き、顔も知らない会社の人からキップも釣銭もない鞄を手渡され「お金のない人からは電車賃をもらわんでも、ええで」と言うことでした。(中略)
 乗客は無口な人が多く、「おお電車が動くんか」と驚かれる人。 「鉄橋が怖いけんのー」と有難がる人。 「火傷の人、斑点が見える人」色々でした。 「有り難うございました」「済みません」と言い、電車賃の払えない人も多かったように思います。 車内はもんぺやゲートルを巻き、救急袋や綿入れの防空頭巾、風呂敷包を持つ人は良い方で、手ぶらの人が多かった様に思います。 身内の方を捜しにいくらしき人も有り、お客は少なかったとは言えない状態でした。・・・
掘本春野 氏 作 (市民が描いた原爆の絵)
相生(あいおい)橋の復旧工事(1949年)
岸本(きしもと)吉太(よした) 氏 撮影/岸本(ひろし) 氏 提供 1949年
  浜井さんは、広島市職員として、後には広島市長として、多くの復興事業に取り組みました。
・・・住宅難もまた大へんなものであった。 防空壕を住まいとしているものは、まだいい方で、鶏小屋に寝起きしているものさえあった。(中略)
 こういう住宅事情を見て、木原市長は市費で応急市民住宅を建てることを決意した。 一戸でも多く建てるために、工費を節約して、最小限度の家をできるだけ多く建てるようにと命じた。(中略)
 いまも基町にある十軒長屋のバラック二十棟が、二十一年の九月に建ったそのときの応急住宅である。 これができあがったときは、申し込みが殺到して、入居者を決めるのに、大へん困ったことを覚えている。・・・
  体験記の続きは、館内の企画展会場と体験記閲覧室で読むことができます。 また、当館のホームページ>>にも体験記を掲載しています。
  会場では、17編の体験記とともに、被爆直後に撮影された写真や被爆者が描いた絵、浜井信三氏ゆかりの資料や医療品の救援物資も展示しています。 また、体験記に関連する写真や絵を用い映像と音声で紹介し、復興の様子を伝えています。 この映像については、過去の企画展で制作したものも含め、体験記閲覧室やホームページでも視聴することができます。 また、映像は平和学習資料として、DVDでの貸出しも行っておりますので、ご希望の方は当館までお問い合わせください。

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