《特集》 国際交流フェスティバル “ぺあせろべ” 30年の歴史に〜FINAL〜
「人生を豊かにしたボランティア活動」
ぺあせろべ実行委員会アドバイザー 延本 眞栄子
プロフィール
〔のぶもと まえこ〕

1948年(昭和23年)生まれ。現在65歳。家族は夫と3男で、現在は夫と2人暮らし。
1985年〜2013年まで“ぺあせろべ”の運営を補佐。
医療法人社団 のぶもと歯科 事務長、(公財)広島平和文化センター理事、元広島カナダ協会事務局次長、Yes!キャンペーン代表、学校法人 比治山学園 比治山女子中学・高等学校同窓会会長、ジョイン広島会員。

ぺあせろべ
  1984年11月4日、平和と愛を旗印(はたじるし)にした第1回の「ぺあせろべ」が広島市の中央公園芝生広場で12団体の参加を得て開催されました。 当時、中曽根(なかそね)総理の「アジアの留学生を日本へ」の留学生増員計画で広島市にも留学生が増え、広島の街に外国人が増えてきました。 外国人にどう接すればいいのかわからない日本人が自然に外国人と交流出来る場所として「ぺあせろべ」は始まりました。 PEACE&LOVEをスペイン語風に発音して名付けられたこの祭りは、2013年10月27日、30回目の開催で交流の場所としての役割を終えたのです。
  「ぺあせろべ」では参加団体が主役。 そして参加団体が内容を決めます。 私たち運営委員は参加団体の希望を叶えるために働くのが仕事です。 だから形体は同じなのですが内容は毎年変わります。 参加団体も40から多い年で56団体の参加がありましたが、毎年少しずつ変わっています。 同じ参加団体でも内容が違う時もあります。 30回のうち全く同じ祭りはありませんでした。 だから30年毎回新鮮な気持ちで続けられたと思います。
  30年間守り続けた約束は、テントは使う人が自分たちで立てるのが原則(とは言いながら皆で助け合って準備・片付けしていました)、イデオロギーは持ち込まない、業者の参加は認めない、締切を過ぎても参加希望はできるだけ受ける、何事も柔軟に取り組む、といったことでしょうか。
  はじめの頃は留学生の参加が多くありましたが、広島大学が東広島市に移転してからは留学生の参加が少なくなってきました。 その代わり、広島に住む外国人や草の根の2国間交流をしている団体の参加が増えてきました。 「ぺあせろべ」の状況は広島の街の変化を如実(にょじつ)に表していました。
ぺあせろべ閉会式

迷い
  広島に住む外国人と広島市民の交流の場としての「ぺあせろべ」が役割を果たしているのか? このままでいいのかしらと思うこともありました。 そんな時、アジアの国を支援している団体の方から「ここでの収益があるから私たちの活動が続けていけるんです」と聞いたときには嬉しかったです。 交流の役に立っていると思えました。
  日本文化で参加していただいたある団体から、「ここで出会った外国人の方が習いに来ていて、本国に帰って是非日本文化を紹介したいと言われ、アメリカ、ドイツに行ったんですよ」とお聞きしたこともありました。 出会いの場所になっていたのです。 ある方がマレーシアに行かれた時、広島に留学していた学生さんに会って「『ぺあせろべ』は楽しかった。OB会をしたいですね。」と言っていましたよと聞いた時には、広島で良い思い出を作ってもらえたと思いました。 そんな折に触れて聞かせていただくお話が私の迷いを消してくれました。

私とボランティア
  私はこれまで「ぺあせろべ」をはじめとしてボランティアを長くしてきましたが、「ボランティアをしよう」と思ったことは一度もありませんでした。 誰かの為にこれをしようと意気込んでもいませんでした。 頼まれると断れない弱い私がいて、引き受ける時、私にできるかなど少しも考えない馬鹿な私がいました。 どんなことでも、引き受けた事は自分に出来るだけの努力をするのが私のモットーなので、一生懸命成就(じょうじゅ)するよう頑張るのです。 その繰り返しで30年あまりを過ごしてきた結果、私は長いボランティア生活を送ってきたことになりました。 若い頃に、留学生のために雨の中走り回りビショビショになって帰った私を見て、主人は「貴女(あなた)よくするね」と(あき)れた顔をしていました。 それからは何も言わなくなりました。 あきらめたのでしょう。
  ボランティア活動は、私の人生を豊かにしてくれました。 様々な人たちとの出会いがあり、学びがありました。 学校では教えてくれなかった事、お金では決して買うことのできない大切なことを教えてくれたのです。 その門戸(もんこ)を開いてくれた「ぺあせろべ」には感謝の気持ちで一杯です。
  世界のいろいろなところで自分の特技を活かしてボランティアをしている方々を見ると、もう少し勉強をしておけば、何か私も、もっと人の役にたてたのにと思うこともあります。
  けれど人生に「もし」「あの時こうしておいたら」はありません。 これからも現状の中で、どんなことも先ず受け入れて、自分にできる事を精一杯します。 そのことが誰かの役に立つことになれば、これ以上嬉しいことはないと思っています。

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