和文機関紙「平和文化」No.186, 平成26年7月号

被爆体験記
「在日コリアンヒバクシャ」としてヒロシマを生きて

本財団被爆体験証言者 朴 南珠
朴南珠
プロフィール 〔パク・ナムジュ〕
1932年広島市で生まれる。 父母は韓国慶尚南道(キョンサンナムド)普州市(チンジュシ)から渡日。 原爆投下当日、弟妹二人と共に爆心地から1900m地点、路面電車の中で被爆。 2003年から「証言活動」を続ける。 また2005年から3年間、民団県本部婦人会長として、日韓交流など平和に関する活動に携わる。
臣民(しんみん)として学徒動員・戦中の日々
 私の父母は戦中に韓国から広島に来ましたが、暮らしは比較的裕福で小学校から女学校に進みました。 小学校の時、太平洋戦争が始まり、女学校の時には学徒動員で野菜を作ったり、建物疎開(たてものそかい)(火災被害を拡大させないための撤去(てっきょ)作業)で勉強はできませんでした。 鉛筆なども配給制となりましたが「勝つためには頑張る」と思っていました。
ハチロク運命の日
 女学校に進学しましたが、8月6日当日は、たまたま軽い怪我のため休み、弟妹2人を連れ福島町から路面電車に乗っていました。
 爆心地から1.9kmあたりで、かすかにB29爆撃機(ばくげきき)の爆音が聞こえたと同時に、物凄い光と音、そして大きな火のかたまりが電車を包みこみました。 無我夢中(むがむちゅう)で電車から飛び降り、気がつくと弟妹の手を握っていました。 身体のあちこちから血が流れている人達のなかを家があった方向に歩き、土手に上がってみると本当に広島の街が消えていました。 爆心地近くから多くのひとが避難してきましたが、言葉では言えないようなむごい状態でした。 父母も福島町で被爆しましたが帰ってきました。
 そのうち真っ黒い、油のような雨が降り出しました。 その中を近所の人と己斐(こい)の山に逃げました。 夜になると広島市街地は空が焦(こ)げるかのように真っ赤に燃えていました。 8月6日に学徒動員で出た近所の人は誰ひとり帰っては来ませんでした。
「市民が描いた原爆の絵」(作者:下村儀三氏)

「市民が描いた原爆の絵」(作者:下村儀三(しもむら ぎそう)氏)
己斐の山より望む市内、燃える、燃える、火災地獄の広島(爆心地から約3km。昭和20年8月6日夜)

 一夜明けると、周囲は本当に「惨状(さんじょう)」という言葉では表現できないひどさでした。 生きている人の傷口に蛆虫(うじむし)が湧いていたり、また、腫れあがったり、眼の玉が飛び出している遺体を焼く作業が行われていました。 子供たちも手伝いました。 私も頭が化膿(かのう)して「ベトベト」になりましたが、「痛さ」の記憶はありません。 ただ「蛆虫が湧く」恐怖だけが鮮明に頭に残っています。
懸命に生きた戦後
 終戦を聞いて、あの恐ろしいB29の空襲(くうしゅう)がないことが、本当に嬉しかったです。
 何故か、戦後父が何時も「身体がだるい」と言って、働かなくなり、生活のためどんな仕事でもしました。 後に分かったことでしたが、父は「肝臓癌(かんぞうがん)」だったのです。
次世代から触発(しょくはつ)・次世代への伝言
 私が証言活動を始めたのは、2002年5月、平和公園で偶然大阪の小学生3人から声をかけられ、体験を話したのがきっかけです。 その子供が参観日に私の話を発表し、その感想を「お母さんのなかには涙するひとがいた」と書いたお礼の葉書を受け取ってからです。
 私は証言の度に子供たちに言います。 「私も在日韓国人としていじめに逢(あ)わなかったことはありませんが、いじめよりもっと優しい愛情をたくさんいただいたので、いじめとか憎しみを忘れられる。本当にいじめよりも優しさ・愛情は大切なんだ」と。 そして、原爆は「助けてくれ」と言う間もなく人を殺してしまう。 戦争は人の殺し合いだから、勝っても負けても多くの人が死んだり傷つく、だから戦争は、そして「核」の使用は絶対してはいけない、このことを次の世代に伝えていきたいと思います。

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