被爆体験記
「丸太のごとく積まれた少年」
本財団被爆体験証言者  河野 キヨ美
プロフィール
〔こうの きよみ〕

1931年、広島市安佐北(あさきた)区に生まれる。 1945年8月7日、女学校2年生の時、入市被爆。 その記憶を「原爆の絵」に描き、絵本「私は忘れない」を出版。 2003年から中学生に被爆体験証言を行う。 2011年に米国ミズーリ州で、2013年に、ワシントン州、オレゴン州、ニューメキシコ州で、大学、高校、中学校にて証言を行った。

広島の街が消えた
  原爆が投下されたとき私は14歳で、爆心地から35km離れた芸備(げいび)線の沿線に住んでいました。 8月6日の夕方、大勢の怪我人を乗せた汽車が近くの駅に着き、初めて「広島に大きな爆弾が落とされ全滅した」との情報が入りました。 私の2人の姉が広島に住んでいたので、翌朝一番の汽車で、母と広島に向かいました。 汽車は途中の矢賀(やが)駅までしか行きませんでした。 汽車から降りた途端、激しい悪臭がして目や鼻を刺すようでした。 そして驚愕(きょうがく)しました。 広島の街が残らず消えています。 ただ黒く広い焼野原です。

幽霊のような人々
  私達は田んぼの中の道を市内に向かいました。 道の反対側には、大火傷をしたり、血を流している避難者の長い行列が続いていました。 その人達の髪はちりぢりで、顔は大きく()れ、焼け焦げた衣服は千切れ、半裸です。 火傷した肩や腕の皮膚がめくれ、ぼろ布のように指先に垂れて、両手を前に差し出したまま、幽霊のようでした。

倍に膨らんだ(しかばね)、橋に並ぶ死体
  街に入ると、狭い道路では足の踏み場もない程、屍が転がっていました。 強い放射線を浴びた人間の体は何倍にも膨らんで赤褐色になり、宙を(つか)むように仰向けに倒れていました。 性別もわかりません。 眼球が流れてゼリー状になり、中に黒い目玉が…舌が長く飛び出して三角の炭に…破れた腹から内臓が流れて卵焼きのような色になっています。 真っ黒な屍や半焼の死体もありました。
  比治山(ひじやま)橋を渡るとき、橋の両側には川から引き揚げられた死体がずらりと並べられ、(こも)が掛けてありました。 歩いていると菰の下から「兵隊さん助けてください。どうか、お水を飲ませてください」と、か細い女の人の声が聞こえてきました。 中にはまだ生きている人がいたのです。

日本赤十字病院の惨状、花壇に積まれた中学生たち
  瓦礫(がれき)の道を歩き、昼ごろ(ようや)く姉が勤める千田町(せんだまち)の日赤病院に着きました。 病院も地獄のようでした。 血塗(ちまみ)れの人々が積み重なるようにコンクリートの床に転んでおり、それぞれに、痛いよー、苦しいよー、助けてー、アアーお母さん、水を飲ませてー、いっそ殺してつかーさい、と泣き叫び、のたうち回っています。 数人の看護婦さんが走り回って手当をしていました。 一人の看護婦さんに、姉は助かって似島(にのしま)に運ばれたと教えられたので、今度は上の姉を探しに行くことにしました。
  病院の外に出ると、玄関(わき)の丸い花壇に中学生の死体が丸太のように放射状に山積みされていました。 建物(たてもの)疎開(そかい)作業に出ていたのでしょうか? 名札を見ると私と同学年です。 わずか13、4歳で虫けらのように死んだ少年達の屍に、私は激しいショックを受けました。

まるで材木のように重ねられた中学生の遺体(「市民が書いた原爆の絵」/作者 河野キヨ美)
波に漂う死体
  宇品(うじな)の姉を探すために御幸橋(みゆきばし)を渡りました。 川面には、満潮で海から押し戻された死体がぽかり、ぽかりと波に漂っていました。 橋を渡った先では建物は焼けておらず、宇品の家も姉も無事でした。 私と母は、帰りは電車通りに沿って歩きました。

帰路での光景・感情が麻痺(まひ)した私
  街中では、暑い日中、異臭の中で数人の兵隊さんが担架でとぼとぼと死体を運んで材木のように積み重ねており、死体の山が沢山出来ていました。
  爆心地近くでは沢山の黒焦げの電車が脱線していました。 1台の電車の側を通る時、何げなく見上げると、電車内に黒い物がぶらさがっています。 よく見ると黒焦げの腕です。 つり皮を持ったままの腕が、炭の棒になっていました。
  百貨店の福屋(ふくや)まで来ると、8階建てのビルは中が真っ黒に焼け、外壁だけになっており、周囲の道路に怪我人が二重、三重に寝かされていました。 兵隊さんも沢山(うずくま)っていましたが、火傷もしていないのに顔は土気色で、息も絶え絶えでした。 死んでいる人もいました。
  生まれて初めて多くの残酷な屍や怪我人を見て、私の心は麻痺し、何を見ても何も感じなくなりました。 福屋から後の記憶が欠落し、どのように家に帰ったのか思い出せません。

核廃絶を願って
  あの夏の日の惨状は、とても絵や文で表すことはできません。 お腹を空かし、何も楽しいこともなく、国のためだと、わずか13、4歳で死んだ動員学徒ら。 彼らにも沢山の希望や夢がありました。
  当たり前だと思っている今の平和な暮らしが、多くの人々の犠牲の上にあることを、若い人たちに考えてほしいと思います。 世界情勢は不安定ですが、私はこれからも希望を失わず、若い人々に核廃絶と平和への願いを、時間が許す限り訴えたいと思っています。 それが、あの夏の日を生き残った者の責務だと思います。
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