広島の街が消えた
原爆が投下されたとき私は14歳で、爆心地から35km離れた芸備線の沿線に住んでいました。
8月6日の夕方、大勢の怪我人を乗せた汽車が近くの駅に着き、初めて「広島に大きな爆弾が落とされ全滅した」との情報が入りました。
私の2人の姉が広島に住んでいたので、翌朝一番の汽車で、母と広島に向かいました。
汽車は途中の矢賀駅までしか行きませんでした。
汽車から降りた途端、激しい悪臭がして目や鼻を刺すようでした。
そして驚愕しました。
広島の街が残らず消えています。
ただ黒く広い焼野原です。
幽霊のような人々
私達は田んぼの中の道を市内に向かいました。
道の反対側には、大火傷をしたり、血を流している避難者の長い行列が続いていました。
その人達の髪はちりぢりで、顔は大きく腫れ、焼け焦げた衣服は千切れ、半裸です。 火傷した肩や腕の皮膚がめくれ、ぼろ布のように指先に垂れて、両手を前に差し出したまま、幽霊のようでした。
倍に膨らんだ屍、橋に並ぶ死体
街に入ると、狭い道路では足の踏み場もない程、屍が転がっていました。
強い放射線を浴びた人間の体は何倍にも膨らんで赤褐色になり、宙を掴むように仰向けに倒れていました。
性別もわかりません。
眼球が流れてゼリー状になり、中に黒い目玉が…舌が長く飛び出して三角の炭に…破れた腹から内臓が流れて卵焼きのような色になっています。
真っ黒な屍や半焼の死体もありました。
比治山橋を渡るとき、橋の両側には川から引き揚げられた死体がずらりと並べられ、菰が掛けてありました。
歩いていると菰の下から「兵隊さん助けてください。どうか、お水を飲ませてください」と、か細い女の人の声が聞こえてきました。
中にはまだ生きている人がいたのです。
日本赤十字病院の惨状、花壇に積まれた中学生たち
瓦礫の道を歩き、昼ごろ漸く姉が勤める千田町の日赤病院に着きました。
病院も地獄のようでした。
血塗れの人々が積み重なるようにコンクリートの床に転んでおり、それぞれに、痛いよー、苦しいよー、助けてー、アアーお母さん、水を飲ませてー、いっそ殺してつかーさい、と泣き叫び、のたうち回っています。
数人の看護婦さんが走り回って手当をしていました。
一人の看護婦さんに、姉は助かって似島に運ばれたと教えられたので、今度は上の姉を探しに行くことにしました。
病院の外に出ると、玄関脇の丸い花壇に中学生の死体が丸太のように放射状に山積みされていました。
建物疎開作業に出ていたのでしょうか?
名札を見ると私と同学年です。
わずか13、4歳で虫けらのように死んだ少年達の屍に、私は激しいショックを受けました。
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