被爆体験記
「家族の運命を変えたあの日」
本財団被爆体験証言者 末岡 昇
プロフィール
〔すえおか のぼる〕

昭和12年(1937年)生まれ。 原爆投下時、爆心地から800メートルの西新町(現在の土橋町)に祖父母をはじめ10人家族で住んでいた。 被爆当日、まったくの偶然により家族の生死が分かれた。
8月18日、両親と私の3人で、西新町の焼跡で祖父母の遺体を焼いた。 原爆の悲劇は語り継がなければならないと思う。
2004年ピースボランティア。 2016年被爆体験伝承者。 2017年被爆体験証言者。

原爆以前の私たちの家族
 原爆が投下された昭和20年(1945年)、私達一家は父の転勤により、5月か6月に東京から広島に移りました。 急な転勤でした。 父の会社は、ある大手の化学工場でした。 家族は父の(しげる)、母の喜久子(きくこ)、7歳だった私、2歳だった妹の悠紀子(ゆきこ)の4人家族でした。
 父の実家は西新町(にししんまち)(現在の土橋町(どはしちょう)。平和記念資料館のすぐ近く)にあり、古くから西新町で大きな旅館を営んでいました。 転勤が決まると、私たち一家は家財道具をまとめて会社の社宅あてに送り出し、あわただしく東京を後にしました。 しかし、当時の貨物輸送はすべて軍事優先で、家財道具はいつ到着するのか分からない状態でした。 舟入(ふないり)にあった社宅で生活する上での必需品(ひつじゅひん)にも困った私たちは、西新町の祖父の家に一時的に身を寄せるしかありませんでした。
 昭和20年当時、すでに祖父の旅館は営業停止の状態でした。 祖父の家では、祖父の栄吉(えいきち)、祖母のりょう、父の妹たち・長女の初代(はつよ)、体の弱かった露子(つゆこ)、県庁に勤めていた富士子(ふじこ)の5人家族が住んでいました。 そこに私たち家族が加わり、さらに7月20日には私の弟の(ひろし)が生まれて、祖父の家は10人の大家族になりました。
 私たち家族は、あの日の前日の8月5日までは、西新町でごく普通の市民生活を送っていました。

偶然が家族の運命を分けた
 広島も空襲(くうしゅう)の心配があるので、7月の末に、母は生まれたばかりの弟と幼い妹だけを連れて、宮島の近くの親戚(しんせき)の家に一時避難をしました。 勤めのある父と学校がある私は広島に残りました。
 偶然が私たち家族の運命を変えました。 8月5日は日曜日でした。 私は一人で母のところに遊びに行くことにしました。 祖父はこれに頑固(がんこ)に反対したので、私は「必ず5日中に帰ってきて、6日には登校する」という約束をしました。 しかし、久しぶりに母に会い、生まれたばかりの弟を見たりしているうちに、祖父との固い約束を破り、5日中には帰りそびれてしまいました。
 翌6日の朝、親戚の家の前の海辺に出て、ぼんやりと、海上はるか20km先の広島を見ていると、突然、見たこともない強烈な閃光(せんこう)を目撃しました。 続いて10秒ぐらい後に「ドーン」いう(にぶ)い音が響きました。
 あの閃光の瞬間、広島が壊滅(かいめつ)して何万人もの命が奪われたのだと思うと、今も身の毛がよだつ思いです。
 原爆が投下されたとき、父は爆心地から5km離れた工場に出勤していました。 その後数日間、父は祖父たちを探して何日も市内の焼け跡をさまよい、ついに瓦礫(がれき)の下に祖父母と初代、露子の遺体を見つけることができました。 遺体が発見された時には、原爆投下から10日以上経っていました。
広島東警察署屋上から南を望む。 目をさえぎるものは何もなく、広島瓦斯(がす)広島工場のガスホルダー、
向宇品(むこううじな)、そして広島(わん)に浮かぶ似島(にのしま)(広島市から海上4000m)が見えた。
(平和記念資料館提供)
 8月18日、父と母と私は祖父の家の焼け跡に行きました。 そして、瓦礫の下から半分焼けずに残っていた祖父母の遺体を見つけ出し、その場で火葬(かそう)にしました。 遺体を焼くとき、母は小声でなにか(つぶや)いていましたが、内容はわかりませんでした。 母は「ほら、これがお(じい)ちゃんだよ」と言いましたが、目の前にある遺体が、5日の朝に玄関で見送ってくれた祖父だとは、私には信じられませんでした。 なんだか魚の(くさ)ったような臭いが強く印象に残りました。 何十年もたった今でも、似たような臭いをかぐと、あの時の情景が鮮明に(まぶた)(よみがえ)ります。
 後年、父は肺がんで亡くなり、8月6日に父と一緒に家を出て県庁に出勤した富士子は、いまだに行方不明のままです。

最後に、私たちの願い
 戦争中はとても不安で不自由な生活でしたが、国民は家族同士いたわり合い、助け合って幸せな生活を送っていました。 私の家族もそうでした。 そんな家族を一瞬にして奪われたのです。
 今でも世界中のどこかで国と国との争いが起こっています。 いつ核兵器が使われるかわかりません。 絶対に核兵器は廃絶させなければならない。 これが私たち被爆者の強い願いです。 戦後74年、戦争を知っている世代も少なくなりました。 今こそ核兵器の悲劇を語り継ぐ輪を全世界に広げることが、核兵器廃絶につながる道だと固く信じています。
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