被爆体験記
ヒロシマを生き延びて
本財団被爆体験証言者 切明 千枝子
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プロフィール 〔きりあけ ちえこ〕
1929年生まれ。
高校1年生の15歳の時、爆心地から1.9km離れたところで被爆。
2019年より被爆体験証言者として活動を始める。
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私が生まれたのは1929年。
世界大恐慌が始まった年です。
ニューヨークの株式市場の株価が大暴落し、日本も影響を受けて不景気のどん底になりました。
失業者が巷にあふれ、自殺者が急増したと聞いています。
私は赤ん坊ですから、その事を知る由もないのですが、その時の空気を吸って生きた人間です。
その不況から、いち早く抜け出す方法が戦争だったのです。
私が2歳の時に満州事変が起こり、小学校2年生の時に日中戦争、小学校6年生の時に太平洋戦争に突入し、15年間もの長い長い戦争の時代でした。
その戦争が広島・長崎への原爆投下を機に日本の敗戦により終わったとき、私は15歳でした。15年戦争をどっぷりと生きたわけです。
広島は原爆で壊滅するまでは軍都でした。
広島城の周辺に陸軍の巨大な師団が置かれ、宇品の港は中国大陸や東南アジアの国々を侵略する軍隊の出発港でした。
小学生の私も先生に引率されて、出征する兵士を日の丸の小旗を振って「万歳!万歳!」と叫んで見送りました。
長じて旧制高等女学校へ進学しましたが、進学とは名ばかりで、毎日、学徒動員で工場に働きに行っていました。
1945年(昭和20年)、広島には陸軍の大きな工場が3つありました。
兵器補給廠、被服支廠、糧秣支廠です。
私はまるで派遣社員のように、そのすべての工場に働きに行きました。
アメリカが原爆を作っている時に、私は兵器補給廠で古い鉄砲の錆落とし、被服支廠で軍服の古着の洗濯補綴をしていたのです。
そして8月6日、その日は皆実町の煙草工場に動員され、軍用の煙草の粉まみれで働いていました。
工場内勤務だったので、1人だけ機械の下敷きになり亡くなった方がいましたが、私やクラスメイトは爆風で飛び散ったガラスの破片が頭や首筋に刺さって軽いケガをしたものの命は助かりました。
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しかし下級生は大変でした。
広島市役所の裏あたり(爆心地からおよそ1.2km・現在の国泰寺町)へ建物疎開の後片付けに動員されていたのです。
全身火傷で衣服は焼けて裸同然、水膨れになった皮膚が剥がれて指先からぶらさがったり、足元に引き摺るという様子で、凄惨としか言いようのない有様です。
何人かは学校まで戻ってきましたが、医者もいなければ薬もありません。
家庭科の実習室に残っていた古い天ぷら油を塗るのが精いっぱいの手当てでした。
煙草工場から学校まで逃げ帰った私達が手当てをしたのですが、彼女らは、もがき苦しみながら次々に死んでゆきます。
その下級生を私はこの手で火葬にしたのです。
校庭の片隅で。
桜の花びらのような淡いピンクの小さな骨を、泣きながら拾いました。
こんなことが二度とありませんように。
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市民が描いた原爆の絵「全身火傷で逃げる学徒たち」
作者 村上 美佐子
作者のことばから 「娘は市役所裏で建物疎開作業中、全身やけどをし、素裸で大勢の人と逃げる途中、南大橋で兵隊さんがカーテンの切れ端を拾って下さったのを腰に巻き、吉島飛行場へたどり着き、もう見えなくなり、動けないまま、親切な人に上着を着せてもらい、お母さん、お母さんと呼びながら3時頃死にました。」
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今年91歳の婆さんになる私は、幼くして死んでいった彼女達のことを忘れることはできません。
その冥福を祈り、恒久平和を守るには、今なにをすべきかを、ひたすら考える日々です。
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