「収蔵資料の紹介」コーナーでは、資料館で収蔵している約2万点の資料の中から、テーマに沿って数点ずつを展示しています。
昭和20年(1945年)8月6日、一発の原子爆弾により、広島の街は一瞬にして廃虚
(はいきょ)と化しました。
大量の放射線を浴び、体を焼かれ、多くの人々が苦しみながら亡くなりました。
今回は、未だに行方さえ分からない人たちにまつわる品11点を、家族の言葉とともに紹介しています。
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平和記念資料館 学芸課/TEL(082)241-4004
遺骨代わりの瓦片
(寄贈 浜田平太郎(はまだ へいたろう))
浜田照代(てるよ)さん(21歳)は勤務先の日本興業銀行広島支店で被爆しました。
爆心地から僅か200mの距離でした。
被爆後、そこには炭化した黒焦げの7人の遺体が横たわっていました。
焼け跡に立ち尽くした母・かとさんは、照代さんの遺体を確認できず、近くにあった瓦を遺骨代わりに持ち帰りました。
原爆でもう一人の娘も亡くしたかとさん。83歳で亡くなるまで、原爆のことはほとんど話しませんでした。