本館常設展示は、被爆資料や写真、被爆者が描いた「原爆の絵」など実物資料を中心に被爆の実相を伝えています。
資料は長期間展示すると劣化の恐れがあります。
また、現在も資料館には被爆者や遺族から「亡くなった人の存在と被爆の状況を伝えてほしい」と資料の寄贈があり、その数は増え続けています。
大切な資料を保存し、収蔵資料の活用を図るため、資料館では定期的に展示資料の入替を行っています。
今年資料館では、2月24日から26日まで臨時休館して本館常設展示の「8月6日の惨状」、「魂の叫び」、「絵筆に込めて」の3つのコーナーの資料を入れ替え、2月27日(土)に公開しました。
「8月6日の惨状」と「魂の叫び」のコーナーの大規模な入替は平成31年(2019年)4月25日の本館リニューアルオープン以来、初めてです。
「絵筆に込めて」コーナーは3回目の入替となります。
「8月6日の惨状」(人への被害・集合展示)は、建物疎開作業に動員され亡くなった生徒たちの遺品を展示するコーナーです。
被爆当日、広島市内では、空襲による火災が広がるのを防ぐため、建物を取り壊し空地をつくる建物疎開作業が行われていました。
この作業には大人だけでなく現在の中学校1、2年生の年齢にあたる国民学校高等科の児童や中学校、高等女学校の生徒たちが数多く動員されました。
大型の展示ケースには、亡くなった生徒が身に着けていた学生服、行方不明となった生徒の、焼け跡で見つかったモンペやかばんなど、22人33点の資料を展示しています。
その中に県立広島第二中学校1年生の北林哲夫
(きたばやし てつお)さん(当時12歳)の学生服とズボンがあります。
哲夫さんは、爆心地から600m離れた中島新町
(なかじま しんまち)の建物疎開作業現場で被爆。
全身に火傷を負いながらも自宅へ戻った哲夫さんの顔は腫れ上がり、いつもの面影はありませんでした。
両親が懸命に看病しましたが、翌7日、うわ言のように歌を歌いながら亡くなりました。
父親は当時の日誌に、涙があふれて止まらない無念の思いを記しています。
広島女学院高等女学校の松本美代子
(まつもと みよこ)さん(当時14歳)は、爆心地から1,200mの雑魚場町
(ざこばちょう)の建物疎開作業現場で被爆しました。
帰って来ない美代子さんの身を案じて母親が必死に捜しましたが、行方は分かりませんでした。
翌年の8月6日、母親が再び建物疎開作業現場に出かけ、焼け跡を捜すと土の中から美代子さんが身に着けていたモンペが見つかりました。
母親はモンペを土がついたまま新聞紙でくるみ、毎晩抱いて泣きながら寝ていました。
「魂の叫び」は遺品とあわせて説明文、遺影、亡くなった人や家族の言葉を展示し、一人ひとりの命の重さと家族の悲しみを伝えるコーナーです。
原爆により命を失ったさまざまな年代の人たち17人25点の資料に入れ替えました。
入れ替えた資料には、県立広島第一高等女学校1年生の森脇瑤子
(もりわき ようこ)さん(当時13歳)の「制服(夏服)」と「弁当箱」があります。
瑤子さんは爆心地から800m離れた土橋
(どばし)の建物疎開作業現場で被爆。
背中に大火傷を負い、収容された佐伯郡観音村
(さえきぐん かんのんむら)の観音国民学校で亡くなりました。
制服は母親の雅枝
(まさえ)さんの着物をほどいた生地で瑤子さんが作ったもので、作業現場で見つけられ、自宅に届けられました。
弁当箱は兄の浩史
(こうじ)さんが同じ現場で見つけたものです。
最愛の妹を失った浩史さんはこれらの遺品を資料館へ寄贈する時に
「この遺品は戦争の結末だと思います。見る人は自分のこととして受け取ってほしい。瑤子も訴えていると思います。」
と語りました。
 森脇瑤子さん(当時13歳)
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 瑤子さんの制服(夏服)
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 瑤子さんの弁当箱
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 井東ユキさん(当時17歳)
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 ユキさん製作「鏡の覆い」
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また、「鏡の覆い」は井東
(いとう)ユキさん(当時17歳)が授業の課題で制作したものです。
ユキさんは爆心地から2,200m離れた吉島本町
(よしじま ほんまち)の自宅で被爆しました。
爆風で飛び散った鏡の破片が胸に突き刺さり、中庭に吹き飛ばされ、鏡に掛けていた覆いを胸に当てた状態で亡くなっているのを家族が見つけました。
自宅にいた他の家族はほとんど怪我もなく、ユキさんだけが亡くなりました。
覆いの下の方にユキさんの血痕が残っています。
弟の茂夫
(しげお)さんは、姉が根気よく刺繍
(ししゅう)したこの覆いを大切に保管していました。
「絵筆に込めて」のコーナーは、被爆者が当時の情景を思い起こして描いた「市民が描いた原爆の絵」の原画を展示しています。
毎回テーマを決めて絵を選定し、今回は被爆後に降った「黒い雨」をテーマとした絵6点に入れ替えました。
絵の中に、再会した母と子に「黒い雨」が降る情景を描いたものがあります。
作者は当時14歳で、爆心地から1,750m離れた舟入
(ふないり)病院に入院しており、看病に来ていた母親とともに被爆。
絵には、爆風で飛び散ったガラス片を受け額や唇から血が噴き出し、腕からも血を流す母親と顔が真っ黒に焼けただれた作者が再会する場面が描かれています。
今後も「8月6日の惨状」(人への被害・集合展示)、「魂の叫び」コーナーの被爆資料等は1年ごとに、「絵筆に込めて」の絵の原画は半年ごとに、定期的に入れ替えます。
資料館は、展示する資料1点1点を通して、大切な家族との日常を奪い去る原爆の悲惨さを伝え続けていきます。
(平和記念資料館 学芸課)