和文機関紙「平和文化」No.206, 令和3年3月号

黒い雨が描かれた「原爆の絵」

 広島平和記念資料館では、約5,000枚の「市民が描いた原爆の絵」(以下、「原爆の絵」)を所蔵しています。 「原爆の絵」は、昭和49年(1974年)に一人の被爆者がNHK広島放送局に自身が描いた絵を持ち込んだのを契機に、昭和49年~50年、平成14年(2002年)の2回にわたり募集が行われたもので、現在でも作品が資料館に寄せられています。
 「原爆の絵」の中には、原爆投下後に降った放射性物質を含む黒い雨に関する絵が多く含まれています。 これらの絵は、描かれた場所で黒い雨が降ったことを示す貴重な証言でもあります。
 ここでは、広島市内外の情景が描かれた3つの作品を紹介します。
① 宇品方面へ避難する人々に黒い雨が降る
「市民が描いた原爆の絵」石本孝雄作
昭和20年(1945年)8月6日 午前10時頃
爆心地から 2,200m / 千田町(せんだまち)三丁目 御幸橋(みゆきばし)
石本孝雄(いしもと たかお)作 (被爆当時35歳/絵を描いた年齢65歳)
 京橋川(きょうばしがわ)に架かる御幸橋の情景で、原画はカレンダーの裏面に描かれています。 作者の石本さんは入院中にこの絵を描きました。 この絵には、被爆して市の中心部から宇品(うじな)方面へ逃げる人々に黒い雨が降る様子や、市街地が炎上する様子が描かれています。
 作中には「焼けただれ衣類もなく何百何千と思われる人々が宇品方面にぞろぞろと続く 人相もわからず人間とも思われない 生地獄」という作者の言葉が書かれ、被害の甚大さを伝えています。
② 郊外の竹やぶに逃げた人々に黒い雨が降る
「市民が描いた原爆の絵」塚本喜三作
昭和20年(1945年)8月6日
爆心地から 4,600m / 安佐郡(あさぐん)祇園町(ぎおんちょう) 長束(ながつか)
塚本喜三(つかもと よしぞう)作 (被爆当時36歳/絵を描いた年齢66歳)
 広島市内で被爆し、安佐郡祇園町長束(現、広島市安佐南区長束)付近の竹やぶに逃げ延びた人々を描いたものです。 竹やぶを背景に、上半身裸の負傷した女性や、女学生らしき人物の遺体、他にも血まみれの人物が描かれ、黒い雨が表現されています。
 作品の裏面には作者の妻が読んだ短歌「生々とよみがへる記憶に夫が描く原爆の絵は黒き雨降る」が書き込まれています。
③ 山県郡安野村に降る黒い雨
「市民が描いた原爆の絵」中島秋人作
昭和20年(1945年)8月6日 午前10~11時頃
爆心地から 30km / 山県郡(やまがたぐん)安野村(やすのむら) 安野村役場付近
中島秋人(なかしま あきと)作 (被爆当時16歳/絵を描いた年齢73歳)
 広島に原爆が投下された後の山県郡安野村(現、山県郡安芸太田町(あきおおたちょう))の安野村役場付近の情景を描いたものです。 当時役場で働いていた作者の中島さんは、同僚とともに広島の方向の黒煙を見に行きました。 紙片や木片などが空から降って来たため拾い集めましたが、役場の収入役から「毒があるから拾うな」と言われ、中島さんは持っていた紙片を川に流しました。 そのうちに薄暗くなって雨が降り出し、よく見ると薄黒い雨であったといいます。 この絵は、資料館で所蔵する「原爆の絵」の中で、最も爆心地から遠い場所での黒い雨を浴びた体験を描いたものの一つです。
 
 これらの絵を含む6点の黒い雨を描いた作品を、2月27日(土)から約半年間の予定で資料館本館「絵筆に込めて」のコーナーで展示しています。

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