突然の閃光(せんこう)
今から75年以上も前のことになる。
昭和20年8月6日。
前夜からの空襲
(くうしゅう)警報で何度も防空壕
(ぼうくうごう)に逃げ込んだ。
早朝、警戒警報のサイレンが鳴って防空壕に入った。
しばらくして警戒警報解除のサイレンが鳴って防空壕を出た。
7時31分だったという。
疎開
(そかい)先から帰っていた国民学校三年生の姉と一年生の私は一緒に、町内に設けられていた分散授業所に登校した。
分散授業所とは、空襲が激しくなってからは距離の遠い本校までは行かず、地域ごとにお寺や民家を借りて設けられていた臨時の教室のことである。
私が通っていたのは、今の広島駅新幹線ホームの西端付近の民家を借りて設けられていた荒神町
(こうじんまち)国民学校大須賀
(おおすが)分散授業所であった。
姉と朝の掃除に取り掛かって玄関の方を雑巾
(ぞうきん)がけしていた。
が、バケツの水が汚れ、水替えに姉の方が台所に入って行った。
私は、何かの気配を感じたのか手を止めて、居間越しに庭の方に目をやっていた。
その時、ピカーッともの凄
(すご)い閃光が一帯を覆った。
庭の八手
(やつで)の葉が真っ黒になって溶けるのを見た。
次の瞬間、ドゥンンと爆風が襲いかかり柱や天井が崩れかかってきて、私は何かに叩
(たた)きつけられ、真っ暗になった闇
(やみ)の中で身を縮めていた。
どれくらいの間
(あいだ)を耐えていたのか、だれも助けに来てくれることはなかった。
土煙が少し収まったのか、上の方から光がもれてきた。
「あっ、天井が破れている」。
あとは、死に物狂いで這
(は)い上がっていった。
壁土や、藁
(わら)の腐ったような臭いの中、柱の隙間
(すきま)をかいくぐり、何かを押し上げ、懸命に抜け出していった。
そこは崩れた屋根の上だった。
目の前の道を異様な人たちが列となって逃げていた。
周りを見ると、どの家もどの家もつぶれていた。
私は、逃げていく人の流れに交じって懸命について逃げた。
線路に向かう上り坂になった時、それは長い長い避災者の列であることが分った。
側溝には馬が仰
(あお)のけになってもがいていた。
饒津
(にぎつ)神社横の川に沿う道に出たとき、対岸の白島町
(はくしまちょう)の、川へと下りる石段には人が雪崩
(なだれ)のようになって川原へと下りていた。
川には、沢山の人が浮き沈みして流れているのが見えた。
私は、人の流れに遅れまいと懸命について逃げた。
川沿いの崩れた家から火が噴き出してきた。
私は瓦礫
(がれき)の道をはだしで逃げていた。
いや、ほとんどの人がはだしだったろう。
二葉山
(ふたばやま)の中腹まで被災者の流れに何とかついて逃げた。
そこはもう、被災者でいっぱいだった。
眼下の広島の街がごうごうと燃え出していた。
黒煙を巻き上げ、まさに一面が火の海となっていった。
東練兵場をさまよう
夕刻になって火が衰えをみせ始め、避難していた人々は山を下り始めていた。
私も、そこで出会った近所のおばさんに連れられて山を下りた。
もし、父や母や姉が生き残っておれば避難しているはずだと思われる場所へ、鶴羽根
(つるはね)神社から広島東照宮
(とうしょうぐう)前を抜け、広島駅の北に広がる東練兵場
(ひがしれんぺいじょう)へと出た。
そこは一面、被災者で埋め尽くされていた。
いつの間にか近所のおばさんとははぐれていた。
一面に広がるうめき声や「水をくれぇ」という声の中を当てもなく歩き回った。
後に作家となった今西祐行
(いまにし すけゆき)は、救援のため東練兵場に来ているが、その時の様子を「わたしたちは、地ごくのまん中にたっていました。」と書いている。
「8月6日夕刻の東練兵場(現在の広島駅北一帯)」(作者 梶矢文昭)
さまよっている私を近所のおじさんが見つけてくれ
「お父さんもお母さんも生きとってじゃ。じゃがのう、お母さんは血もぐれ(血まみれ)じゃ、早う行かにゃ、ありゃあ死ぬるで」
と言われた。
自分では覚えていないが、その時、私は大泣きをしたそうである。
私は、頭部から顔面にかけて血を流していたそうだ。
母はガラス片が50個も60個も体に突き刺さり血だらけになってうめいていた。
左の眼球にも突き刺さり、それを父が抜きとっただけで、治療はなく左目は失明。
何十の傷痕と身体の中にまだ残っていたガラス片とともに、それでも94歳までを生き抜いた。
うめき続ける母の前の草の上に姉が横たえられていた。
少しほほ笑んでいるように私には見えた。
姉は分散授業所で柱の下敷きになり即死だったそうだ。
同じ授業所にいた二年生の友達も即死していたことが後で分かった。
しかし、その学校の記録では原爆による死亡児童は「0」となっている。
木造校舎であった多くの学校で、調査の時点で分散授業所での死亡児童の確認が取れていなかったのである。
父は、傷を負いながらも母や姉を瓦礫から引き出したあと、救援活動に動き回っていたそうである。
私は血だるまの母のそばに寄り添い、まだ燃え続けている広島の市街を前に、一面の被災者のうめき声の中、8月6日の夜を過ごした。
被爆後を生きる
その後も東練兵場で数日をすごしたが、近郊の人々からの救援のむすび、軍人から配ってもらった乾パンの袋、その袋の底の方にあった金平糖
(こんぺいとう)を口にしたときの甘味は、今も、感謝の気持ちと共に心にある。
学校も、戦後しばらくは「青空教室」であった。
昭和22年か23年の平和祭(平和記念式典の前身)で、現在の平和記念公園内に当時あった「平和塔」のステージに子供会で出演、原爆で両親を失っていた友と踊りをおどったこともある。
昭和23年にヘレン・ケラー女史が広島を訪れられた時、学童全員が引率されて沿道に並び夢中で手を振ったのを今でもはっきり覚えている。
朝鮮動乱のころ、まだ焼け跡や瓦礫の山は残っており、掘り返しては金属類を集め、小遣いにしていたこともあった。
語るとき
被爆のとき、東練兵場近くの広島東照宮に逃がれていた作家原民喜
(はら たみき)は、生き残った自分に自問自答しながら手帳にメモを残した。
「コハ今後生キノビテコノ有様ヲツタヘヨト天ノ命ナランカ」。
語るとき、そのことばを時に思い起こしている。
プロフィール 〔かじや ふみあき〕
爆心地から1.8kmの地点で被爆。
以後も、広島市内に住み続ける。
退職した年に「ヒロシマを語り継ぐ教師の会」を発足。
以後20年継続中。
また、講習を経て令和2年より広島平和文化センターの被爆体験証言者にもなる。
広島ペンクラブ会員。
東京2020オリンピック聖火ランナー(予定)。