和文機関紙「平和文化」No.210, 令和4年10月号
平和記念資料館令和4年度第1回企画展

爆心直下の町―細工町・猿楽町

期間  令和4年9月16日(金)~令和5年2月13日(月)
場所  広島平和記念資料館東館1階 企画展示室

企画展示室正面
企画展示室正面
 通りに面した病院の前に立つ爆心地の説明板。 現在も島しま内科医院として続く島病院の上空600メートルで原爆がさく裂したことを伝えています。 そこから北西に160メートル離れた場所に立つ原爆ドーム。 被爆当時、広島県産業奨励館と呼ばれ、ドーム部分の鉄枠と壁の一部をとどめる姿が、被爆の惨状を訴えています。 島病院と広島県産業奨励館は、それぞれ細工町(さいくまち)、猿楽町(さるがくちょう)と呼ばれた町にありました。
 企画展は、この爆心直下の2つの町に焦点をあて、「被爆前の街並み」、「変わり果てた光景」、「再建の歩み」 の3つのコーナーで構成しています。
 最初のコーナーの「被爆前の街並み」では、細工町と猿楽町の街並みやそこで暮らす人々の様子を写した写真を中心に展示しています。 細工町には、広島郵便局のほか、古くからのお寺や複数の病院が立ち並び、静かで落ち着いたたたずまいを見せていました。 猿楽町では、通りに沿って様々な商店が立ち並び、にぎやかで明るい下町の風情がありました。 当時の住民の方は、猿楽町の通りを「スキップしながら袋町の小学校まで通った通りでした」と語っています。 人々は、町内の行事があれば、皆で協力し合い、仲良く和気あいあいと暮らしていました。
「変わり果てた光景」のコーナー
「変わり果てた光景」のコーナー
 
指の痕が残る薬瓶 (菅原桂子氏寄贈)
指の痕が残る薬瓶 (菅原桂子(すがはら けいこ)氏寄贈)
 次のコーナーの「変わり果てた光景」では、原爆によって一瞬に焦土と化した町と犠牲となった人々について伝えています。
「変わり果てた光景」のコーナー
「変わり果てた光景」のコーナー
 原爆により町内にいた人々は、ほぼ全員亡くなりました。 動員先や疎開先から家族の消息を求めて町内にたどり着いた人々の目の前には慣れ親しんだ街並みや家族と過ごした家はなく、歩くのが困難なほど多くの黒焦げの遺体が横たわっていました。 展示資料の中には、細工町の黒川(くろかわ)病院の焼け跡から見つかった薬瓶があります。 瓶は高熱で変形し、指の痕が残り、中には当時の錠剤が入ったままです。 瓶が見つかった周りには、薬棚のガラスが溶け、何人かの看護師たちの骨と 一体となっていました。
指の痕が残る薬瓶 (菅原桂子氏寄贈)
指の痕が残る薬瓶
(菅原桂子(すがはら けいこ)氏寄贈)
 最後のコーナーの「再建の歩み」では、初めに猿楽町の焼け跡に一軒の家屋が建ち始める写真を展示し、再建の道を歩み始めた町の様子について伝えています。 猿楽町で自転車卸業を営んでいた川本福一(かわもと ふくいち)さんは、妻と娘の一人を原爆で亡くし、自身も傷を負っていましたが、避難先からいち早く戻り、元の場所に店舗を再建しました。 また、猿楽町で化粧品の製造・販売を営んでいた伊い勢せ屋や商店の伊勢千ち枝え子こさんが戦後に生まれた子どもを抱いている写真を展示しています。 千枝子さんは、店を営んでいた夫を原爆で亡くし、残された6人の子どもを養うため、雑貨店を営みながら必死に毎日を生きました。
 展示を通して、人々が努力し、積み上げてきた暮らしを一瞬にして奪う原爆の悲惨さと、家族や同僚を失い、つらい記憶を抱えながら、必死に生きる人々の強い意志を感じ、平和の大切さを考えていただければと思います。
 
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