和文機関紙「平和文化」No.211, 令和5年3月号

平和記念資料館本館常設展示資料の入替

 広島平和記念資料館の常設展示では、被爆資料や写真、被爆者が描いた原爆の絵などの実物資料を中心に被爆の実相を伝えています。
 被爆資料や絵の原画は長期間展示すると劣化の恐れがあるほか、所蔵する多くの資料の活用を図るため、資料館では定期的な展示資料の入替を行っています。
 今回、2月14日から16日までの期間、資料館を臨時休館し、本館常設展示の「8月6日の惨状」、「放射線による被害」、「魂の叫び」の3つのコーナーの被爆資料60点、「市民が描いた原爆の絵」の原画6点を入れ替え、2月17日から公開しました。
 「8月6日の惨状」コーナーのうち、「亡くなった生徒たち」の大型ケースには、建物疎開作業に動員され被爆した生徒たちが当日身につけていた衣服や携行品を22人分、34点展示しています。
「8月6日の惨状 亡くなった生徒たち」
「8月6日の惨状 亡くなった生徒たち」
 写真左下に写る上着・ズボン・布靴は、県立広島第二中学校1年生だった堀尾英治(ほりお えいじ)さん(当時13歳)が当日身に着けていたものです。 英治さんは爆心地から600mの中島新町(なかじましんまち)の建物疎開作業現場で被爆し、大火傷を負い川に浸かっていたところを助けられました。 知らせを受けた母親がリヤカーに乗せて自宅に連れて帰りましたが、8月10日に亡くなりました。
 同コーナーの「黒い雨」及び「救護所の惨状」の展示ケースには、それぞれ黒い雨の染みが残ったふんどしと体操シャツ、救護所で亡くなった女性が当日着ていたワンピースを展示しています。
「8月6日の惨状 黒い雨」
「8月6日の惨状 黒い雨」
((左)松宮豊子(まつみや とよこ)寄贈、(右)堀江柊子(ほりえ しゅうこ)寄贈)
「8月6日の惨状 救護所の惨状」
「8月6日の惨状 救護所の惨状」
(飯島憲章(いいじま のりあき)・飯島俊荘(しゅんそう)寄贈)
 
 被爆して亡くなった方の遺品を説明文や遺影とともに展示する「魂の叫び」コーナーでは、17人分、22点の遺品を入れ替えました。
 南側のケースで展示している印鑑と眼鏡は、かばん店を経営していた平柿保(ひらがき たもつ)さん(当時52歳)の遺品です。 保さんは爆心地から500m離れた塚本町(つかもとちょう)の同業者の組合事務所で被爆しました。 妻のアヤノさんが翌日から市内を捜索し、8月25日に事務所の焼け跡でこの印鑑と眼鏡を発見しました。
「魂の叫び」(南側)
「魂の叫び」(南側)
印鑑と眼鏡 平柿アヤノ寄贈
印鑑と眼鏡 (平柿アヤノ寄贈)
 
 北側のケースで展示している夏服は、爆心地から800mの土橋(どばし)付近の建物疎開作業現場で被爆した、県立広島第一高等女学校1年生の大下靖子(おおした のぶこ)さん(当時13歳)が当日着ていたものです。 靖子さんは被爆後収容されていた救護所から自宅のある佐伯郡大竹町(さえきぐん おおたけちょう)まで運ばれ、両親と再会しましたが、その日のうちに亡くなりました。 この夏服は、靖子さんが母親の着物をほどいて自分で縫ったものです。
「魂の叫び」(北側)
「魂の叫び」(北側)
自分で縫った夏服 大下定雄(さだお)寄贈
自分で縫った夏服 (大下定雄(さだお)寄贈)
 
 今後も、「8月6日の惨状」、「放射線による被害」、「魂の叫び」の被爆資料は1年ごと、「市民が描いた原爆の絵」の原画は半年ごとに入替を行う予定です。
(平和記念資料館 学芸課)
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