和文機関紙「平和文化」No.211, 令和5年3月号
被爆体験記

核なき世界へ

篠田 恵

本財団被爆体験証言者
篠田 恵さん

昭和20年8月6日
 私は女学校2年生(13歳)だった。 その日私は、比治山(ひじやま)の下の鶴見橋(つるみばし)付近の建物疎開の作業に行く予定だったが、連日の作業の疲れが出て、休んでいた。 そこへ隣のおばさんが石臼(いしうす)を借りに来られた。 弟はすっくと立ちあがり、「おばちゃんも食べんちゃい」と煎(い)り豆の入った茶碗(ちゃわん)を差し出した。
 その瞬間、ヴヮ―ンという音と共に大きな炎が家の奥まで入ってきた。 私のそばの障子(しょうじ)がメラメラと燃え上がった。 私は「水」と思って立ち上がりかけた。 その瞬間、足元の畳がずり落ちて、私も床下に落ち、頭を抱えた。 後から来た爆風で、ありとあらゆるものが吹き飛ばされた。 屋根には1メートルくらいの穴が開き、柱が残っているだけ。 家の南側に干してあった布団は、物干し竿(さお)ごと折れて3つの部屋を通過し、炊事場まで飛ばされていた。 母は顔と手足、弟は茶碗を差し出していた手を大火傷した。(「家の見取り図」参照)
 もうこの家にはいられないと、私は火傷した二人を運ぶために、母の伯母のところへ大八車(だいはちぐるま)を借りに家を出た。
 近所の家々もかなりの被害を受けている様子だった。 伯母に事情を話すと、大八車を土手まで押し上げて「早く連れておいで」と言って下さった。
被爆して市外へ逃れていく人々(作 新宮あきな)
被爆して市外へ逃れていく人々(作 新宮(にいみや)あきな)
 田んぼの中の一本道を帰っていると、向こうの方から黒い帯のようなものが来る。 近寄ってみると、髪はぐしゃぐしゃ、顔は赤黒く、両手は胸のあたりで前に伸ばし、指先に何かぶら下がっている。 服はボロボロ、まるでおばけのよう。 そんな人が何十人何百人も私の方に向かって来る。 私は地獄に迷い込んだのだろうか。 怖くて怖くて、下を向いて自分の足先を見ながら、一歩一歩我が家へ向かった。 家についたころには薄暗くなっていた。
被爆して市外へ逃れていく人々(作 新宮あきな)
被爆して市外へ逃れていく人々(作 新宮(にいみや)あきな)
 三菱(みつびし)に勤務していた姉は無事との知らせがあり、学徒動員で山の中の工場にいた姉は無事に帰ってきたが、爆心地に一番近い左官(さかんちょう)の信用組合(現在の広島信用金庫)に勤めていた幸代(さちよ)姉さんが帰って来ない。
 陸軍被服(ひふくししょう)で働いていた父は、夜中に帰宅した。 「幸代姉さんがまだ」と言うのが精一杯だった。 父は察していたのか、目が涙で光っていた。
 
姉を捜しに市内へ
 明けて7日、姉の勤務先の本店が横川(よこがわ)にあり「そこまで帰っているかもしれない」と、父と二人で姉を捜しに市内へ向かった。 焼けたドアをギギ―と開けると、そこはまた地獄だった。 赤く膨れ上がってうつろな目をして転がっている人たちが、人の気配を感じると「お母さん~、水ちょうだい~」と繰り返す。 私はその場に立ち尽くし、一歩も入ることができなかった。 父は姉を捜してまわったが、そこには姉はいなかった。
 電車道を南下して十日市(とおかいち)へ。 ここでは電車が丸焼けになっており、中には一人、座ったままで亡くなっていた。 爆心地近くの相生橋(あいおいばし)の方へ眼をやると、性別もわからない真っ黒い死体がゴロゴロしている。 皮のゲートルで兵隊さんとわかる死体もあった。 馬も三頭死んでおり、お腹が割れて黄色い臓物が出ていた。
 姉が勤める信用組合の前で手を合わせ、「神様仏様どうか姉を守ってやってください」と祈った。
 相生橋手前を、川土手を通って家の方へ戻ると、私の母校である大芝(おおしば)小学校に、避難した人が大勢集まっていた。 自宅近くまで戻ると、大八車の方から「世羅(せら)(私の旧姓)さんでしょう」とか細い声が何度も呼ぶ。 覗(のぞ)いてみても、赤くはれて人相が全く変わっていて、誰かわからなかった。 大八車を引く人から、クラスメイトの岡田(おかだ)さんとわかった。 私は無傷。 建物疎開作業に行っていたら、私もこのようになったか、死んでいたであろうと思うと、声をかけてあげることもできなかった。
 岡田さんは今どうしているだろう。 私は死ぬまで忘れることができない。 この日は姉を見つけることはできなかった。
 姉を捜さなければと思ったが、とりあえず壊れた我が家を片付けて、そこに寝ることになった。 畳の上で寝られるのは、とてもうれしかった。
 その日から、母は柱に寄りすがって姉の帰りを夜な夜な待ち続けた。
 
今も続く不安
 昭和20年8月15日、天皇陛下の玉音(ぎょくおん)放送で敗戦を知った。 敗戦を予見していた父の言葉は本当だったなあと思った。
 戦後、従兄と兄が元気で復員してきた。
 弟晴樹(はるき)の包帯も9月半ばには取れたが、原爆症の一つである下痢が10月頃始まった。 「おいもはいらん」「かぼちゃは食べん」と言い、母を困らせた。 病気の子供に食べさせてやるものもなく、母もどんなにかつらかったであろう。 隠れてそっと涙を拭(ふ)いていた姿を今も忘れることができない。 弟は骸骨(がいこつ)のようになって、母の胸にしっかり抱かれ、10月22日に姉のもとへいった。
 数年後、父は肝臓癌(がん)、母は胃癌、長姉は肺癌、兄と従兄は焼け跡の灰を掘り起こしたためか、二人ともが白血病で死亡した。 私は健診で膵臓(すいぞう)癌が発覚。 78歳の時に大手術をした。 戦後78年経った現在でも、被爆者は不安を抱えて生きている。
 
伝えたいこと
 戦争は悪。 今世界中に核爆弾がおよそ一万三千発あると言われている。 広島に投下された「リトルボーイ」の何十倍、何百倍の威力があると言われている。 こんなものを使用すると、地球は破滅するだろう。 21世紀こそ戦争のない、核兵器のない平和な世界になるよう、一人でも多くの人に語っていこうと思う。
 結びに、倫理学者で原水禁運動家の森瀧市郎(もりたき いちろう)氏と、高校の恩師である被爆者の沼田鈴子(ぬまた すずこ)氏の言葉を伝えたい。
 「核と人類は共存できない。」
 「憎しみの心の中から平和は生れない。」
 

プロフィール
〔しのだ めぐみ〕
昭和 7年3月生まれ。 旧姓、世羅。 女学校2年生13歳の時、爆心地から2.8kmの自宅で被爆し、体調をくずし退学。 後に、安田(やすだ)学園高等学校を卒業した。
2017年より、広島平和文化センターより委嘱を受け、被爆体験証言者として活動している。

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