被爆体験記
戦争を知らないあなたヘ
本財団被爆体験証言者
脇舛 友子
1945年8月6日
私は当時3歳でした。
この日、母と私は、高田郡吉田町
(たかたぐん よしだちょう)(当時)の母の実家から呉
(くれ)の自宅に帰る予定で、芸備
(げいび)線の向原
(むかいはら)駅から汽車で広島に向かいました。
しかし原子爆弾投下により、戸坂
(へさか)駅で全員降ろされたので、歩いて広島駅(爆心地から約1.9km)に向かいました。
広島駅が近づくにつれ、被爆して避難してくる人たちとすれちがうようになり、その姿を見た私が「オバケ!オバケ!」と泣き叫ぶので、申し訳なくて困惑したと母は後に人に語っていました。
そのうち私が歩かなくなったので、母は自分の服を私にすっぽりかぶせ、おぶって歩きました。
私はしっかり目を閉じていたので、よく覚えていませんが、広島駅は壊滅状態でした。
広島駅構内から南東を望む。右手が主待合室で左手側がホーム。この区画は屋根及び2階が崩落している。
(1945年11月18日 米軍撮影/平和記念資料館所蔵)
向洋
(むかいなだ)からは汽車が動いていると聞き、線路伝いに向洋駅へ歩き、そこで母に「目を開けていいよ。」と言われました。
そこには、フランケンシュタインを思わせる包帯だらけの人、松葉杖
(まつばづえ)を持った人、着るものが無いのか毛布のようなものを羽織った人…オバケではないが、やはり見るのも怖い光景でした。
やがて日が沈み辺りが暗くなるころ、汽車に乗れたので呉に向かいました。
窓からは真赤に空をこがす広島が見えました。
その後も、学童疎開中の姉の心配や、食糧調達のため、私たちは呉と吉田町を何度も行き来しました。
餓死した孤児達
「広島では日が暮れると暗黒の闇夜が続いた。野宿をしても一匹の蚊もいない。生き物が焼き尽くされた広島の町で、生き残った人々の中に親を失った子ども達がいた。食べるものはなく、一人、二人と息絶えていった。荼毘
(だび)に付す為に抱き上げた時、餓死した子供の口が開き、中に小さな石が入っていた。」
この話は、新聞やラジオがなくても、人から人へと伝えられました。
当時3歳の私も、大人達が「可哀想に、辛かっただろうね。餓死するなんて…」と涙にくれている姿を見ていました。
お腹が空いて石がお菓子に見えたのかな…何か口に入れることで慰めになったのかな…一人ぼっちで死んでゆくなんて可哀想…。
想像した私は、「お母さん、川の水と草を食べれば死なんですんだでしょう、なんで誰も教えてあげんかったんかね、どうして、どうして、」と問いました。
いつもなら大人の話に口を出すと叱られるところですが、皆、涙、涙で言葉を失っていました。
しばらくしてポツリと一言、母が教えてくれました。
「広島の町は焼き尽くされて、一本の草も木もないよ。虫もいないし、食べれるものはなにもないよ。きっと70年は草木も生えんと皆、言っている。草を食べたくても、草もなかったんよ。」と。
知っていますか? 放射線
私は昨年4月に平和文化セン
ターの被爆体験証言者として委嘱を受け、それからは、日本全国から平和学習の為に広島を訪れる小中高の生徒さんに私の体験を語っています。
多くの生徒さんは「原子爆弾は単に大型爆弾であり、多くの人の命を一瞬にして奪い、都市に想像を絶する破壊をもたらすものだ。」と解釈していました。
しかし私の被爆体験証言で、被爆後十年に及ぶ微熱との闘い、嘔吐
(おうと)・下痢の続く日々、出血しやすく不安な日々、「ロクロ首」と言われた甲状腺の腫れ、それにより心臓機能が低下し苦しい日々、被爆35年後にようやく正常に動き始めた心臓の話…を聞くと、「“生き残れた人達は、それで大丈夫”と誤解していました。本当に怖いのは目に見えない放射線だと初めて知りました。」という言葉を頂き、放射線の影響の怖さを語る大切さを実感しました。
同時に、もしかして、世界の多くの人達に、放射線の怖さが伝わっていないのではないかと危惧しました。
私達が被爆した1945年当時、広島の人達は放射線の知識が皆無でした。
そのため入市被爆による犠牲者を多く出し、被害が拡大しました。
被爆者は後遺症に苦しみながら、生きのび、多くの医学的
データや被爆体験証言を残しました。
それらは世界で活用されているのでしょうか?
全てを世界の皆様に、具体的に、誰もが理解できる方法で示し、共有してゆく事が、被爆国の私達の務めだと考えます。
微力ながら、私も全力で務めさせて頂きます。
脇舛 友子 (わきます ともこ)
3歳の時、原爆投下当日に、母とともに戸坂駅から線路沿いに歩いて広島市内へ入った。
2022年から広島平和文化セン
ターの被爆体験証言者として活動。
著書:「高齢婆の呟
(つぶや)き人生」、「戦争を知らないあなたへ(日英)」、「忘れないで! ひろしまを(日英)」