和文機関紙「平和文化」No.215, 令和6年3月号

被爆体験記

非人道的な核兵器の廃絶非人道的な核兵器の廃絶世界恒久平和実現向けて

ないとう しんご

内藤 愼吾

本財団被爆体験証言者

内藤愼吾さん
ないとう しんご

内藤 愼吾

本財団被爆体験証言者

満6歳のとき、爆心地から1.7kmの自宅で被爆、家族7人のうち6人を失い、満14歳のとき天涯孤独の身となる。 この悲惨な出来事を風化させてはいけないと、令和4年4月から被爆体験証言者となり、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現を願い証言を続けている。

 1945年8月6日、満6歳の私は爆心地から1.7kmの吉島羽衣町(よしじま はごろも ちょう)の自宅で被爆しました。 当日の朝は、澄み切ったきれいな青空の下、午前7時31分には警戒警報も解除され、いつもどおりの生活が始まろうとしていました。

消そうとしても消せないあの日の記憶

 庭の防空壕(ぼうくう ごう)の入り口で1匹の弁慶蟹(べんけい がに)を見つけ、これを捕まえようとしゃがんだ、その瞬間でした。 私は突然の大音響の中で強烈な爆風に背中を押され、防空壕の中へ吹き飛ばされました。 一瞬、周囲は真っ暗闇となり、顔面に吹き付けてくる砂塵(さじん)や小石に耐えながら床にじっとうずくまり、この状態が早く収まってくれるよう祈り続けました。
 やがて、爆風も緩やかになり、周囲がうっすらと明るくなるのを感じて、恐る恐る防空壕の外へ出てみると、私たちの住む町は全部の建物が爆風でペチャンコにつぶされていて、見渡す限り瓦礫(がれき)の山と化していました。
 ランニングシャツ姿で庭に立っていた父は強烈な熱線を全身に浴びて、大火傷をして真っ黒焦げになり呆然(ぼうぜん)と立っていました。 母は、自分自身も左の肩から肘にかけて大火傷を負っていましたが、つぶれた縁側の屋根の上で、髪を振り乱し必死の形相で瓦をはがしていました。 その下には、4歳の弟と2歳の妹が生き埋めになっていたのです。 全身血まみれの二人の幼子を両脇に抱えた母の後ろに、私が全身やけどの父を支えながら従い、自宅から約3kmはなれた吉島の陸軍飛行場の救護所を目指して避難を開始しました。
 瓦礫の山を乗り越えて広い道路へ出てみると、そこには大やけどを負い全身真っ赤に焼け爛(ただ)れた人々の列がありました。 体中の皮膚がむけてしまい、まるでぼろきれのように垂れ下がった両手の皮を身体の前にぶら下げて、うつむいたまま黙々と避難する人々の列が続いていて、とてもこの世のものとは思えぬ惨状でした。 道端には瓦礫にはさまれて助けを求める人、力尽きてそのまま息絶えてしまう人の姿があちこちに見られました。 川土手に出てみると川面には上流から流れてきた多くの死体が浮いていました。
「市民が描いた原爆の絵」(作者 吉村吉助)
「市民が描いた原爆の絵」(作者 吉村吉助(よしむら きちすけ)/広島平和記念資料館所蔵)
“衣服は引き裂け皮膚はたれ下がりこの世の人とは思えぬ姿の負傷者たち。 声も立てず黙々と郊外へ逃げていく。”
 しばらくすると、全身やけどの父の顔面はパンパンに膨れ上がり、まぶたが完全にふさがってしまい目が見えない状態になりましたが、何とか父を助けながら飛行場の救護所に着いたときは夕方ちかくになっていました。
 そこには多くの被災者が詰め掛けてごった返していましたが、治療といってもやけどの表面の乾燥を防ぐための油を塗る程度のものでした。
 この時、幼い弟と妹は母の腕の中で既に息絶えていて、治療を受けることもありませんでした。
 私たちは飛行場の片隅の小さな防空壕に入ることが出来ましたが、ここへ入るなり父は眠り続け、8月10日の未明、そのまま息を引き取りました。

ニ人の兄の死

 8月11日、被爆後消息不明であった2番目の兄と奇跡的な再会をし、私たち母子3人は、防空壕を出て20kmの道を歩き続け、宮内(みやうち むら)の疎開先へ帰りました。 久し振りで畳の上でぐっすり眠ることが出来、私は間もなく元気を回復しましたが、兄は、発熱、嘔吐(おうと)、下痢を繰り返すようになりました。 今考えると、急性の原爆症だったのかもしれませんが、その時は腸チフスと診断され、母子3人は病院に隔離され、兄は8月30日に母に看取られながら息を引き取りました。

母の死

 9月に入り、母は建物疎開作業に出たまま消息不明となっている中学1年の兄を再び探し始め、10数日後、やっと見つけたのは、小さな箱に収められた遺骨と、「9月14日死亡」と書かれた紙切れでした。 母はその場で泣きくずれ、しばらくは立つことが出来なかったそうです。
「建物疎開作業」(作者 前田稔)
「建物疎開作業」(作者 前田稔(まえだ みのる)/広島平和記念資料館提供)
 その後、母は仕事を探し、片道約2時間の電車通勤を要する広島市内の会社に女性工員として採用されましたが、この頃から身体は目に見えて衰えてきました。 少々体調が悪くても薬を飲みながら1日も休まず働き続けた母は、1953年11月7日の未明、激しい頭痛に苦しみながら息を引き取りました。
 戦後8年経っても母の体調が良くならないのは被爆の影響かもしれないということは、なんとなく感じられていたのですが、結局、死因は「脳内出血と過労による心臓麻痺(まひ)」であろうということになりました。
 この時、私は中学3年生。 親戚に引き取られ高校を卒業すると同時に就職し、社会へと巣立つことができ、現在に至っています。

私の思い

 人類史上初めて広島に投下された非人道的な原子爆弾に対する憎しみや怒りの気持ちは、いつまでも消えることはありません。 しかし、憎しみから平和は生まれてきません。 決して忘れることのできない憎しみや悲しみを乗り越えて、核兵器廃絶と世界恒久平和実現のため、被爆体験を次の世代に語り続けることが、今、私に課された重要な課題だと考えています。
 
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