核兵器廃絶に向けた人道的アプローチ
中満 泉
国連事務次長
(軍縮担当上級代表)
核軍縮に向けた『人道的アプローチ』という概念は、ここ10年ほどの間に大きな注目を集めるようになりました。
同時に、このアプローチは軍縮分野において長い歴史を持ち、19世紀以降、軍縮および軍備管理協定の基盤の一部を形成してきました。
例えば、1868年の爆発性発射体に関するサンクトペテルブルク宣言は、「戦争の惨禍を可能な限り軽減する」必要性に言及しています。
1925年に署名開放となったジュネーブ議定書は、人道的責務に言及し、「文明社会の大多数の人々によって正当に非難」されてきたことを理由として化学兵器及び生物兵器の禁止を求めました。
さらに最近では、国際社会は特定通常兵器使用禁止制限条約(一時的通称は「非人道的兵器条約」)に合意しました。
クラスター爆弾禁止条約及び対人地雷禁止条約は、国際社会が本質的に非人道的であると見なす特定の兵器を禁止するものでした。
これと同じ論理と原則を核兵器にも適用し、核兵器を廃絶するためのもう一つの説得力のある理由とすることが、次のステップでした。
およそ10年前の2013年、ノルウェーのオスロで核兵器の人道的影響に関する最初の会議が開催されました。
各国政府、国際機関、市民社会が集まり、核兵器使用による壊滅的な人道的影響について取り上げ議論をしました。
この議論は、遅きに失したとはいえ、核兵器が人類にとって現実の一部となった1945年以来、ずっと求められてきた議論でした。
しかし同時に、広島と長崎への原爆投下以来、核保有国は核兵器を国家安全保障上の最終的な防衛手段として掲げ続けてきました。
一方で、核兵器が国民、つまりその国の市民の安全保障を確かにするものにはなり得ないことも明らかになっています。
むしろ、いかなる核兵器の爆発に対しても、適切な人道的対応は不可能なのです。
このことはよく理解されていましたが、歴史的には、核兵器政策においては国家の優位性に重きが置かれてきました。
しかし最近、重要なパラダイムシフトが起こっています。
国家中心的な文脈で始終する議論にかわり、核軍縮に向けた人道的アプローチでは、核爆発の影響を受けた人々の実体験に重きを置くようになったのです。
核爆発の影響を受けた人々というとき、そこには被爆者のストーリーである広島と長崎への原爆投下と、地域社会や環境への何世代にも及ぶ核実験の影響を受けた人々の両方が含まれますが、これは綿密な科学的研究に基づいたものです。
実際、核軍縮に向けたこのような人道的アプローチは、被爆(曝(ばく))者が自らの体験を語り、人々の意識を高めたことから始まったと言えるでしょう。
その結果、外交の協議の場にも大きな恩恵がありました。
核軍縮を支持する議論がより説得力を持ち、より現実味を帯び、より自分事として捉えられるようになったのです。
核兵器の人道的影響は、時間的にも空間的にも制御の効かない、壊滅的かつ無差別なものです。
人口密集地での核爆発は、人道及び環境面で想像を絶する破滅的な結果を引き起こすでしょう。
赤十字国際委員会が「人口密集地域における核兵器爆発によって生じる即時の人道上の緊急事態や長期的な影響」⑴と表現した事態に、いかなる国家も対処する準備を十分に整えることはできませんし、また、被害者への適切な援助を提供することもできません。
そして、核爆発による影響は国境を越え、爆発地点から遠く離れた地域にまで広がります。
広島と長崎への原爆投下による悲惨な結果が示しているように、被爆し即死しなかった人々も、重篤で長期的な健康被害に苦しむ可能性が高いのです。
この二つの理由から、核軍縮は、引き続き国連の軍縮分野での最優先事項となっています。
だからこそ私は、過去10年間における人道的アプローチによる議論の枠組の変化、特に2017年に署名開放され、2021年に発効した核兵器禁止条約(TPNW)が成立したことに励まされています。
この条約は、すべての核兵器関連活動を包括的に禁止する初めての多国間条約であり、また、新たな多国間核軍縮条約としては20年以上ぶりのものでした。
また、核兵器の使用および実験の被害者に明確に焦点を当てています。
実際、この条約は、とりわけ被爆(曝)者の献身的な努力と粘り強さの賜物だと言えます。
しかし、核兵器の人道的影響に関する議論は、TPNW締約国とその支持者だけに留まるべきではないというのが私の確固たる考えです。
兵器自体と同様に、この問題は地球に住むすべての人々に影響を与える問題です。
私たちは皆、一国の安全保障ではなく、人間、国家、各国共通の安全保障を統合した国際的平和・安全保障への有意義で実用的なアプローチを追求することにより恩恵を受ける立場にあるのです。
核兵器の人道的影響に関する取組は、その努力に不可欠な部分です。
控えめに言っても、国籍や条約上のステータスに関係なく、世界共通の関心分野なのです。
今日、世界は複数の課題に直面しています。
地政学的緊張は高まり続け、不信感が対話に取って代わっています。
その結果、私たちは再び、危険な核のレトリックに煽あおられた、深刻で日常的な核リスクの世界に直面しています。
我々が築いてきたガードレール、すなわち国際的な軍縮および不拡散体制は、大変な試練にさらされています。
広島と長崎への原爆投下から80年という節目が間近に迫る中、私たちは核兵器が人類の存亡を危うくする深刻な脅威であることを、今一度深く心に刻むべき時を迎えています。
この凄惨な出来事が決して忘れ去られないように、勇気を持って語り継いできた被爆者の皆様に心から敬意を表します。
その勇気ある行動は、ノーベル平和賞という形で世界から認められたばかりです。
国連のアントニオ・グテーレス事務総長は、被爆者のメッセージを未来へと継承し、広めていくことを誓っています。
すなわち、「今こそ、核軍縮が必要です。」と。
緊張と不安の時代において、核軍縮を進めることが容易でないことは認識しています。
しかし、だからこそ、私たちは人道面から軍縮へのコミットメントを再確認し、核戦争の影響から民間人を保護するための世界的な努力を強化すべきです。
また、そうすることで、核戦争はニッチな軍縮問題でもなければ、私たちの手には負えない平和と安全保障の問題でもないと再確認すべきです。
核戦争は人類の生命、環境、持続可能な平和、そして開発に壊滅的な影響を及ぼすでしょう。
核兵器がもたらす絶え間ない脅威は、私たちの行動すべてに影を落としており、核兵器を廃絶することはすべて人々の利益にかなうことなのです。
広島・長崎には、是非、国連機関とも協力して、全世界の人々、市民社会に、核兵器使用による人道的影響を明確に示している、被爆の実相を伝え続けていただきたいと思います。
(2024年10月)
〔なかみつ いずみ〕
1989 年国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に入職。
国連平和維持局(PKO)政策・評価・訓練部長およびアジア・中東部長、国連開発計画(UNDP)危機対応局長などを経て2017年5月より現職。