和文機関紙「平和文化」No.218, 令和6年12月号

被爆体験記

「原爆被爆体験」

才木 幹夫

本財団被爆体験証言者
才木幹夫氏

才木 幹夫

本財団被爆体験証言者

8月6日

 私は13歳の時に、爆心地から2.2kmの段原(だんばら)で被爆しました。 段原の家々は半壊状態で、建物や家具の一部が道路まで散乱し、家の中にいた人々はガラス片で怪我をしていましたが、我が家では母、兄弟、私の5人は奇跡的に無傷でした。 ふと比治山(ひじやま)の方を見ると、山の向うの上空にもくもくと火煙が燃え上がっています。 「段原だけでなく広島の中心部もやられている。どんな爆弾を落としたんだろう?」と、この現象に驚きと戸惑いを覚えました。
 もう一人の弟は国民学校6年生で、爆心地から北に15~6kmの久地(くち)という所に学童集団疎開していました。 弟はそこで何と、“広島市役所”と書かれた、部分的に焼けた書類が空からバサッと降ってきたのを見て、「広島がやられた。」と不安になったそうです。
 父は的場町(まとばちょう)の電停で被爆。 家に帰って来た時は腕などの火傷が大きく水膨れになり、やがて皮膚が破れて垂れ下がり、赤身がむき出しになりましたが、当時は治療することも出来ませんでした。
「的場町から北東に向かって」(1945年8月18日頃)
「的場町から北東に向かって」(1945年8月18日頃)
(撮影 佐渡次郎(さど じろう)/提供 広島平和記念資料館)
的場町・荒神橋(こうじんばし)西詰北側付近から北東に向かって。画面左奥に広島駅と猿猴橋(えんこうばし)が見える。
 8月6日午後、比治山を下りて来る集団が見えました。 私達の前に現れたのは、痛ましい被爆者の行列でした。 男女の区別さえ判らない状態です。 髪は焼け縮れて逆立っています。 顔は膨れ上がって目を開くことも出来ません。 全身火傷で衣服も焼け千切れ、とても哀れな有様です。 「水をください。」の声に、急いで水を差し上げました。 被爆者にとっては待望の水です。 飲み終わると「有難う。」と深々と頭を下げて、また行列に戻って去って行くのです。
 すると兵隊が飛んできて、「水を飲ませるな!飲んだら死んでしまう!」と叫ぶのです。 水を飲ませて良かったのか悪かったのか。 「末後(まつご)の水だったかもしれない。」と今でも自問自答が続きます。

友達の被爆

 私は県立広島第一中学校(爆心地から約850m)の2年生でした。 7月下旬に学徒動員で高須(たかす)(現在の西区高須)の広島航空に派遣されました。 それまでは比治山の麓(ふもと)に住む1年生のY君たちと一緒に集団登校していました。
 1年生の奇数組は学校近くで建物疎開作業中に被爆し、Y君は全身に大火傷を負いました。 Y君がやっと家に辿(たど)り着いても、お父さんは変わり果てた姿の息子を判別できず、声を聞いてやっと息子だと確認したそうです。 夜になり、体がだんだん弱ってきたY君に、お父さんが“お浄土(じょうど)(仏の住む世界)”の話をすると、それからは「水」とも言わず、Y君はただ口の中で念仏を唱え続け、やがて父母の見守る中、短い一生を終えました。 お父さんは「立派な往生(おうじょう)だった。」と述懐(じゅっかい)しておられました。
 一方、1年生の偶数組は建物疎開作業の交代まで校舎で待機中でした。 K君は被爆時、ピカッと黄金の火柱を感じて、その瞬間意識を失いました。 気がつくと校舎の下敷きになっていました。 中から這(は)い出したあと、最初に見つけたY君を救出しました。 辺りはまだ暗くてY君の顔はぼんやりとしか見えず、太陽もおぼろ月のよう。 そんな中をK君は同級生たちの救出を続けました。 やがて辺りが明るくなってくると、“広島の街が消えている”のが見えました。
 O君は太い梁(はり)に挟まれて身動きできなくなっていましたが、特にけがはなく、意識もはっきりしていたそうです。 やがて煙が立ち込めて来て、T君が「火が廻まわって来たぞ。逃げよう!」と呼びかけました。 K君はやっとの思いで御幸橋(みゆきばし)まで辿り着き、川面に向けて数回嘔吐(おうと)を繰り返しました。 川面をゆっくり流れていく死体を見ながら、「残してきたO君達にすまない。」と涙したそうです。
 2020年にK君が亡くなり、1年生は全員亡くなりました。
基町高校「原爆の絵」
「友達を助けてくれ!」 「火が廻(まわ)って来たぞ、逃げろ!」
(製作 宮本陽菜(みやもと ひな)、被爆体験証言者・兒玉光雄(こだま みつお)
 原爆が落とされたとき、私達2年生は、市の中心部に住んでいた者は地御前(じごぜん)村(現在の廿日市(はつかいち)市地御前)の旭(あさひ)兵器製作所にいました。 市の周辺部在住者や汽車通学生は広島航空に学徒動員中でしたが、この日に限って休日となり、各自が家にいたため生き残りました。
 1年生を思う時、自分が今でも生きていることが辛く、済まないという気持ちになるのです。

未来に向けて

 被爆後、私の家族は爆心地から4.5km離れた渕崎(ふちざき)に一時身を寄せましたが、ここでも、市の中心部に出かけて肉親捜しをした人達は白血病で次々と亡くなっていきました。 原爆被爆の恐ろしさは、月日が経っても、元気だった人が白血病や癌(がん)などで亡くなっていくことです。 核の恐ろしさを世界の人はもっと知っていかなくてはなりません。
 2024年現在、12,000発以上の核弾頭を9か国が保有していると言われています。 ロシアはウクライナ侵攻の中で「核を使うぞ。」と脅しています。
 核は使ってはならないし、戦争もしてはいけません。 私たち被爆者は、率直に被爆当時の有様を伝えていき、過去の出来事として終わらせるのではなく、未来に向けてその体験が生かせるよう努めなければなりません。
 「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」
 この原爆死没者慰霊碑の碑文は、全世界に向けての崇高なメッセージではないのかと思うのです。
 
〔さいき みきお〕
昭和7年生まれ。 ロシアのウクライナ侵攻がきっかけとなって、2023年7月から研修に参加し、翌年4月から被爆体験証言者として活動開始し、8月17日から4泊6日のハワイ・ホノルルでの若者との交流会に参加するなどの活動を行っている。
 
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