和文機関紙「平和文化」No.220, 令和7年6月号
被爆体験記

私の被爆体験、
黒い雨

迫田 勲

本財団被爆体験証言者
迫田勲
さこだ いさお

迫田 勲

本財団被爆体験証言者

忘れられない記憶
 テレビも携帯電話もない時代、標高230mの静かな山の中で突然起った奇怪なことは生涯忘れられない記憶です。 後日、その原子爆弾の凄まじい威力、恐ろしさを知りました。
その時(1945年8月6日の朝)、黒い雨に遭う
 私達集落の子供8人は学校の命令でムショウ(正式にはアオカラムシ)という草を取っていました。 これは食用にもならない、放置すれば、どんどん繁茂し、農地などに侵入してくる厄介な草、1年生の私は一緒に作業をしていた先輩にこれを何にするのですか、聞いたらこの茎を蒸して繊維をとり、乾燥して学校にもって行き、陸軍広島被服支廠(ひふくししょう)と言うところで、兵隊さんの服などの材料にするんだ、と言っていました。 (物のない時代、戦争は子供まで駆り出し、草まで利用していたのですね。)
 その時、突然南の空がピカーとひかり、ドーンという、地に響くような音がしました。
 おじさんが祇園(ぎおん)の三菱(みつびし)の工場に爆弾が落ちた、敵が攻めて来る、と言って急いで家に帰り、竹やりを持ちだし、空に構えたこと、 爆風で前の山が大きく揺れたように感じたこと、 あるおじさんが冠っていた麦わら帽子が遠くに飛んでいったこと、 焼けただれた紙や衣類が飛んできたこと、 母親が飛んできてそれに触ってはいけんと私を抱きしめたこと、 黒煙でダイダイ色、紫色、赤色に変わっていく太陽を見たおばさんが「日輪さんが泣いているようだ、病気になりんさった、これは大事が起った。」と言ったこと、 皆な次々と起こる奇怪なことに右往左往しておりました。
 そして刈りとったムショウを釜で蒸し終えた11時頃、南の空が真っ黒になり、スス混じりの大粒の土砂振り黒い雨が降り、頭や顔がびしょ濡(ぬ)れになり、白いシャツに黒い斑点が付き汚れました。 それが放射性物質を含んだ危険な雨とは知る由もなく、汗と釜の熱で、皆な手を挙げてはしゃいでいました。
 この黒い雨の模様は2024年、私の証言に基づき基町(もとまち)高校生の持田杏樹(もちだ あんじゅ)さんが絵にしてくれました。 この絵の中に、何も知らず無邪気にはしゃぐ、自分の姿を見て愛しさを感じます。 この8人の内、3人が癌(がん)で、他の3人は事故や他の病気で亡くなり、今生きているのは2人になりました。 その当時の子供は(放射性物質の付着した)トマトやきゅうりを丸かじり、空腹をしのいでいました。 又、(放射性物質を含んだ)谷や川の水で生活していました。 このように、私(達)の体には多くの毒針(と私は言っている)が入っており、それが何時悪さをするか、その晩発障害に怯(おび)えております。
突然降り始めた「黒い雨」にはしゃぐ子供たち
“突然降り始めた「黒い雨」にはしゃぐ子供たち ~それが放射性物質を含んだ危険な雨とは知らず~”
(制作:持田杏樹(基町高等学校))
 私はこのような遠方だったため、火傷や怪我はしておりませんが、65歳の時(黒い雨に遭ってから58年後)突然脈拍が120(普通の倍)になり苦しくなり、又汗が出る、喉が渇く、手が震える等で、緊急入院しました。 入院中、10kg体重が減りました。 医師から甲状腺障害と診断、その後「終生治療を要す。」と言われ、今も定期的に診察を受け、薬を飲んでいます。
証言活動を始めた動機、仲良しであった同級生の死
 原爆で両親を亡くし、自身も白血病で苦しみ、心に深い傷、トラウマになっていた親友のY君を見舞いに行った時、初めて、会社を早期退職、入退院、死への恐怖、孤独感等苦悩に満ちた胸の内、原爆の恐ろしさを話してくれました。 そして、その3月後、亡くなりました。 7歳で知り会い、79歳で亡くなるまで、初めて聞いた言葉でした。 彼は私を呼んだんだ、と思い、この活動をする動機になりました。
原子爆弾(核兵器)の恐ろしさと廃絶、平和への道
 原子爆弾は広島や長崎で多くの人が住む街を焼き払い、無差別に多くの人を殺傷しました。 しかし、それだけではありません。 炸裂(さくれつ)時、大量に発生した放射性物質は風に乗り、雨となって野山を越え、19kmもの遠方(実際はもっと遠方)に、そして時を超え、80年経った今でも多くの被爆者を苦しめ、死への恐怖を与え続けています。 その場(一地点)、その時(一過性)だけでない、これが原子爆弾の恐ろしいところです。 原子爆弾は過去ではなく、現在、未来へ続く問題です。 そして地球レベルの問題です。 真の平和、核兵器廃絶は、現実の世界情勢から、その道は遠く険しいですが ①お互い平和へ強い信念をもって、話し合うこと。 国、言葉、文化等は違っても同じ地球に住む同じ仲間、運命共同体。 暴漢に襲われた犬養毅(いぬかい つよし)元首相は「話せば分かる」と名言を残しています。 ②私達にできることは先ずは家庭、友だち、学校、職場、地域へと核兵器廃絶の理解、共感の輪を拡げ、世論を醸成することです。 ③人を大事にすること。 それは、他を思い遣る、譲る心を養う「利他」の心と思います。
黒い雨
原爆の投下後、市内に大火災が発生すると、人々の上に粘り気のある黒い雨が降った。 この雨には放射性物質を含むチリやススが混ざっていた。 人々は、放射性降下物のガンマ線により外部被曝を生じ、体内に摂取した場合は内部被曝を生じた。 現在の広島市域の東側と北東側を除く市域のほぼ全域と周辺部で降ったとされている。
〔さこだ いさお〕
1938年生まれ、87歳。 7歳の時、爆心地から北西に19km離れた山中で黒い雨に打たれた。 2022年、被爆者と認定(77年後)。
2000年から田川康介(たがわ やすすけ)さんの伝承活動、2023年から自身の証言活動を行っている。
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