被爆体験記
茸雲(きのこぐも)の下の悲惨な状況を見ながら走って逃げた記憶
天野 幸吉
本財団被爆体験証言者
原爆が投下された1945年当時は、爆心地から1.6キロメートルの横川町
(よこがわ ちょう)二丁目(駅前あたり)に住んでいて、父母、16才の長姉、9才の次姉、満6才の私と満3才の弟の6人家族で暮らしていました。
1945年4月、私は三篠
(みささ)小学校に入学しました。
空襲から頭を守るため防空頭巾を被り、下駄を履いて次姉と一緒に通っていました。
8月6日の朝は穏やかな青空でした。
学校は夏休みで空襲警報もなく、いつもの日常の風景でした。
朝食のテーブルについたのは8時5分頃で、当時16歳の長姉は学徒動員で観音にある三菱
(みつびし)重工業の工機部で兵器を作る工場に勤めていたのですが、6日の朝は会社を休んで家にいました。
その時、母が「今日は久しぶりに映画か芝居を見に行かんか?」と言い、そんな会話をしていると、食事中に「ピカピカ」と眩
(まぶ)しい光が窓から射し込みました。
その2、3秒後くらいに、「ゴロゴロドーン」という大地を揺るがすような轟音
(ごうおん)が鳴り響きました。
一瞬の爆風で、二階建ての家が崩れ落ちました。
父が咄嗟
(とっさ)に「伏せー!」と叫び、たちまち湿気を帯びた生暖かいタールのようなにおいの粉塵
(ふんじん)に包まれて真っ暗になり、朝が夜になって何も見えなくなりました。
誰も声を発しません。
息をしなければなりませんから、その真っ黒い空気をもろに吸っていたわけです。
どのくらいの時間が過ぎたか分かりませんが、5分か10分くらいでしょうか。
真っ黒がうすくなり、あたりがぼんやり見えるようになり、父の「もう駄目かのー。」という声に長姉が「死にたくない。」と泣き出したのです。
その声に家族は生きる希望を見出し、崩れ落ちた家屋から何とか這
(は)い出すことができました。
外に出ると大粒の黒い雨がぱらぱらと降ってきました。
その時はもう火の手は上がっていて、あと3分遅かったら焼け死んでいたかもしれません。
父は崩れ落ちた家屋の中の人を助け出そうとしましたが、すでに火の手はその人の足元まで迫っており、助けることはできませんでした。
すでに道路を挟んだ両側の家は激しく燃えていて、逃げるのに熱いので毛布や布団を被って逃げました。
父が「早く逃げろ!」と叫びました。
裸同然の全身火傷の女の人がゆっくりした足取りで、時によろよろしながら母に近づき、「お水を下さい。お水を下さい。」と水を求めていました。
母はこのまま死んでいくのなら、せめて望みを叶
(かな)えてあげたいと水を与えていました。
川には多くの死体が浮かび、憲兵が山のように積み上げ燃やしていました。
その後、安
(やす)小学校に避難しました。
長姉は左腕の肩の付け根の肉がガラスの破片で抉
(えぐ)り取られ骨が見えていました。
弟はガラスの破片が顔に飛び散り、顔は真っ赤な血で染まっていました。
私は腰にガラスの破片が入り込んでいました。
そこで簡単な赤ちんを塗り、包帯を巻いてもらい、母の里である中野村
(なかの むら)へ避難することにしました。
歩くとちくちく痛むのですが我慢して歩きました。
叔母宅に着くと少し眠りました。
夜中に目を覚ますと、母が「いいか、我慢しとけ。」と言って傷の蛆虫
(うじむし)を取り去り、私の腰を両親指で思い切り押しました。
2センチメートルくらいのガラスの破片と膿
(うみ)の芯が出てきました。
その後、1年遅れて中野小学校に入学した頃、私は人との違いを知ることになりました。
それは突然気分が悪くなったり、めまいが起きたりするからです。
ですから階段を上がったり下りたりする時は必ず右端を歩いていました。
そうすれば、めまいが起きてもすぐ手摺
(てす)りを掴むことができるからです。
そんなことがあって運動会は参加していなかったと思います。
よく保健室で横になっていました。
原爆で全財産を失い、高等学校へは行けませんでしたが後悔はしていません。
原爆を落としたアメリカも憎んではいません。
過ぎ去ったことですから。
でも原爆の恐ろしさは、途切れることなく伝えていかなければなりません。
この証言を書いていると、点在した死体や次々倒れていく人の光景が目に浮かび、悲しい気持ちになりました。
70歳の頃、胃癌
(いがん)の手術で胃の4分の3を切除しました。
以上で私の体験談は終わらせていただきます。
〔あまの こうきち〕
1939年生まれ。
6歳の時、爆心地から1.6km離れた自宅で、家族と朝食を食べている時に被爆。