被爆体験記
被爆とともに
歩んだ人生
桑原 一之
本財団被爆体験証言者
私は1937年生まれです。
幼い頃、戦争の中で育ち、食料や生活物資は配給制となり、いつもお腹を空かせていました。
父は広島市内で和菓子屋を営んでいましたが、1943年、34歳で招集されました。
私は6歳でした。
出征前、父と母と私は三人で広島護国神社を訪れ、無事を祈って別れました。
それが最後の別れとなりました。
戦地から私宛に来たハガキには、「元気で勉強してくださいね。」と書かれていました。
その後、父が戦死したという知らせが届きました。
戦争は人権を無視し、なんの感情もない野蛮行為です。
父は出征までは商売で忙しく、私は父にどこかへ連れて行ってもらった記憶もなく、とても残念です。
1945年、私は爆心地から約1.5キロのところにあるお寺に通っていました。
8月6日の朝、私はお寺の本堂にいました。
そのとき、ものすごい音と閃光
(せんこう)があり、窓ガラスの破片が飛び散りました。
驚く間もなく、体はとっさに逃げようと動き、本堂の階段を降りようとしましたが、階段は吹き飛んでなくなっていました。
私はその場から飛び降りました。
腰を打ちましたが、家に早く帰りたい一心で、お寺を出て無我夢中で歩きました。
歩いている人々は何も話さず、その顔は皆、放心状態でした。
やがて大勢の人の流れの中に入り、軍用トラックに乗せられ、爆心地から約9キロ離れた海田国民学校へ運ばれました。
そこには全身やけどを負った人や、床に倒れている人が大勢いました。
その中で私は、じっと様子を見ているしかありませんでした。
翌日、避難者をお世話されていた方が「あなたは小さいから私の家に来なさい。」と優しい言葉をかけてくださり、家で食事と飲み物をいただきました。
そして「お父さん、お母さんが迎えに来なかったらうちの子供になりんさいね。」と言われました。
1週間ほどお世話になったある日、突然母が訪ねてきてくれました。
母から聞いた話では、比治山に登る道筋には藁
(わら)で編んだ敷物の「むしろ」を被せた遺体が数百体あり、一つ一つ「むしろ」をめくって私を探したそうです。
母の顔を見て大変安心するとともに、ここまで探し迎えに来てくれたことに、感謝の気持ちでいっぱいになりました。
海田駅から広島駅まで汽車で帰り、広島駅からは、がれきの中を母と歩いて帰りました。
途中、自宅から50メートルほど手前の家の縁側に、同級生の女の子がいました。
その子は丸裸で全身に白い粉薬を塗られ、痛みのためか横にもなれず座ってじっとしていました。
この光景は今でも忘れることができません。
その子は、おそらくお寺の外の墓の近くにいて、直接熱線を浴びたため、ひどい火傷を負ったのではないかと思います。
その後、彼女は亡くなりました。
私はお寺の中にいて、彼女は外にいたという違いで、運命を分けたのだと思いました。
比治山の自宅に帰ると、祖母は無事でしたが、家は半分くらい壊れていました。
窓ガラスは割れ、無数の破片が家の中の仏壇の扉に突き刺さっていました。
また、神棚の柱が折れていたことを覚えています。
母は原爆投下の瞬間、隣家の奥さんと軒先で立ち話をしていて、ものすごい音と閃光に思わず手を取り合ったそうです。
母はわずかに建物寄りにいたため無事でしたが、その奥さんは1週間後に亡くなられました。
戦後は祖母と母、私の三人の生活が続きました。
母は体が不自由な祖母の世話をしながら働き、女手一つで私を育ててくれました。
経済的にも大変な中でしたが、母は優しく、いつも私のことを考えてくれていました。
その後、私は就職し、結婚しました。
当時は原爆投下から年月が経っていましたが、被爆者に対する差別や偏見はなお根強く、将来への不安を感じることもありました。
そうした中でも、妻はそれらを気にすることなく結婚を決意してくれました。
今も心から感謝しています。
結婚後は子どもにも恵まれ、穏やかな生活を送ることができましたが、原爆の影響がいつ現れるのかという不安は、常に心のどこかにありました。
戦争と被爆を体験した者として何ができるのかを考え、地域に貢献する道を選びました。
50代から子ども会の支援など地域活動に取り組み、町内会長や学区の社会福祉協議会会長などを務めました。
私は84歳の時、多発性骨髄腫になり、原爆の後遺症であると認定されています。
被爆者は今もなお、心と体に不安を抱えながら生きています。
これまで私は、被爆者であることを自分から積極的には語ってきませんでした。
しかし、被爆者として体験を語らないことが申し訳ないという思いから、証言活動を始めました。
戦争は人権を無視し、なんの感情もない野蛮行為です。
争いは何も生まないということを、皆さんに知っていただきたいと思います。
相手の立場に立って考え、話し合いで解決することが大切です。
皆さんが平和に幸せな人生を過ごすことができるよう願っています。
〔くわばら かずゆき〕
国民学校2年生であった7歳の時、爆心地から約1.5km離れた、分散授業所となっていた寺の本堂で朝の掃除をしていたときに被爆。