被爆体験記
家族と私の被爆体験
辻󠄀 靖司
本財団被爆体験証言者
私は1942年3月生まれで、原爆投下時は3歳5か月でした。
当時は呉市
(くれし)に住んでおり、家族は39歳の母、20歳の長兄、16歳の二番目の兄、9歳の姉、7歳の兄、そして私の6人家族でした。
当時20歳の長兄は、爆心地から約1.3kmの広島市白島町
(はくしま ちょう)で動員学徒の事務作業に従事しており、木造家屋の中で被爆しました。
めちゃくちゃに壊れた木造家屋の下敷きになりましたが、わずかな空間に守られ、柱やガレキをかき分けて自力で脱出できたのは全くの幸運でした。
足や手のあちこちにはけがをしましたが、大きな外傷はありませんでした。
外へ出ると周りの建物はすべて押しつぶされ、「遠くの宮島
(みやじま)の山が見えたのには驚いた!大きな爆弾が落ちたのだと思った!」と、兄は当時のことを話していました。
しかし、原爆の恐ろしい被害の一つに放射線による被害があります。
至近距離で被爆した長兄は放射線をたっぷりと浴びたことになります。
原爆投下から数日後、母は3歳5か月だった私を背負い、長兄を探すため、呉から広島へ向かいました。
広島駅で列車を降り、焼け野原となった市内を一日中探して歩きました。
私の記憶には、相生橋
(あいおいばし)辺りから川沿いを北へ向かって歩いたこと、その時に見た鉄橋の光景が、特に印象に残っています。
当時は、すべて焼け野原で市内にほとんど人は歩いていませんでした。
母と私は救護所や人が集まっている場所を重点的に探しました。
私は母の背中で「まだ見つからんの。まだ見つからんの。」と、繰り返し聞いていました。
夕暮れ時と思われる頃、爆心地から約1.6kmの常盤橋
(ときわばし)の川岸の石段にいた兄を見つけました。
当時の兄は、ボロボロの服を着て、とても疲れていたように記憶しています。
生死の分からない我が子を見つけた母は、この上ない喜びを全身に表していました。
一日中探して歩いた疲労や心痛も一度に吹き飛んだようでした。
いま考えると、3歳5か月の私をおんぶし、原爆投下後のごたごたの道を歩きながら、生死の分からない我が子を探した母は、どんなにつらく心苦しかっただろうと思います。
長兄は命こそ助かりましたが、大量の放射線を浴びたことにより、その後も体調が優れなかったようです。
「原爆ぶらぶら病」と呼ばれた症状に苦しみ、兄はいつも「しんどい!しんどい!」と言っていました。
また、被爆者ということで、会社員生活でもあってはならない差別的な言動を受け、恋愛や結婚においても偏見や風評差別など、精神的な苦痛を多く体験したことを私も見聞しました。
30歳を過ぎた頃、兄は創業100年以上の優良企業を退職し、その後はアルバイトをしながら生活しました。
休日には、朝からお酒を飲んでは横になって休む、だらしのない生活でした。
私は兄の生活態度が理解できず、母に何度も注意してほしいと頼みました。
何度も何度も頼んでいたある日のことです。
母は涙を流しながら、「お願いだから、お兄ちゃんの好きなようにさせてやってほしい。」と私に一生のお願いだからというような懇願をするのです。
現在の私は、放射線後障害の影響について学び、兄が「原爆ぶらぶら病」で苦労したことを理解できるようになりました。
母も、兄が爆心地から1.3kmという至近距離で被爆し、多くの放射線を浴びていたので、長くは生きられないだろうと思っていたのではないかと想像します。
兄は、残された人生を好きなように生きたかったのだと思います。
母もそのようにさせてやりたかったのだと思います。
あの頃の自分を思い返すたびに、「お兄ちゃん、あの時はごめんなさい。」と心から謝りたい気持ちでいっぱいです。
先祖のお墓参りをした際には、兄に心からお詫
(わ)びをしました。
その後、兄は40歳を過ぎた頃、理解のある方との良縁に恵まれて結婚し、一人の男の子にも恵まれました。
その点は幸せなことだったと思います。
そして、82歳の時に胃がんで亡くなりました。
被爆体験証言者として活動することを考え始めた当初、私は「大きな外傷もない自分が、被爆体験を語ってよいのだろうか。」と迷っていました。
しかし、広島市職員の方々から、「3歳5か月で被爆した体験にも伝える意義がある。」と励ましていただきました。
その言葉に背中を押され、私も自分の体験を伝えていこうと思うようになりました。
また、被爆体験証言者が差別的な言動や誹謗
(ひぼう)中傷を受けていることを知り、大きな衝撃を受けました。
振り返ってみると、私の家族も同じような経験をし、私自身も長兄に理解のない言動をしていました。
まず自らが反省し、行動への一歩を踏み出すことが、被爆者への差別や誹謗中傷をなくし、核兵器廃絶と恒久平和の実現につながると考えました。
私自身も、母と一緒に焼け野原となった広島市内を一日中歩き、残留放射線を浴びました。
現在も、血小板の数値が少ないため、けがをすると出血が止まるまで時間がかかることがあり、日頃から注意しています。
3か月に1度の血液検査や甲状腺機能検査も受け、健康管理に努めています。
今後も健康に留意しながら、核兵器廃絶と恒久平和を訴える平和継承活動に取り組んでいきたいと思います。
平和継承活動は決して難しいものではありません。
講演会に足を運ぶことや署名活動に参加すること、そして被爆の実相を語り継ぐことなど、私たち一人一人にできることがあります。
こうした一つ一つの行動が広がることで、核兵器廃絶への大きな道筋ができるのではないでしょうか。
〔つじ せいじ〕
1942年3月、呉市生まれ。
3歳5か月の時、母に背負われ、被爆した兄を探して広島市内に入る。
現在は被爆体験証言者、被爆体験伝承者、ヒロシマ・ピース・ボランティア、平和学習講座講師として活動している。