被爆体験記
次世代へヒロシマの伝承を
本財団被爆体験証言者 國分 良徳
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プロフィール 〔くにわけ よしのり〕
1929年(昭和4年)生まれ。
中学4年生の16歳の時、爆心地から1.8km離れた自宅のお寺(白島の宝勝院)を出かけようとしていたときに被爆。
戦後は僧侶として長年仏門に仕える。
1998年、町内会長を務めていたとき、多くの被爆者を荼毘に付した河原に世界平和を祈念するため原爆死没者慰霊碑を建立。
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家族と共に自宅で被爆
1945年8月6日、中学4年生で16歳の私は動員学徒として仕事場に向かうため、8時過ぎに自宅であるお寺(宝勝院)を出発しようと、本堂南側の窓辺の椅子に座っていました。
突然、飛行機が急降下する音を聞き、あれっと思った途端、ピカッと閃光が走り、その瞬間、“がん”と頭をなぐられ、吹っ飛ばされて気が遠くなりました。
ふと我に返り、暗闇の中で四方を見回していると、光がすうーと、射し込んできました。
光を目指して無我夢中で障害物を取り除き、脱出しました。
建物の下敷きになっていたのでした。
小学校5年生の弟も脱出してきました。
2人して父母を呼ぶと、父が脱出してきました。
父は私の額の傷を見て、布を探してきて、しばって止血をしてくれました。
3人で手分けして母を呼んでいると、妹らしい泣き声がします。
声を頼りに、かわらなどを除いていくと4歳の妹が見付かり、助け出すことができました。
妹がいた付近のがれきを除いていくと、着物の一部が見えました。
母です。
太い材木が胴体にのしかかり、1歳の弟を抱いて即死しています。
近所の人がのこぎりを持ってきてくださるが、とても材木を切ることができません。
今にして思えば、生きながら焼かれるのではなく、死んでから焼かれたことが、せめてもの救いだと、自分に言い聞かせています。
周りを見ると、茶室から火の手が上がってきました。
中庭の池の水をかけて、一度は消し止めました。
火の気のない所だったので、原爆の熱線で着火したのだと思います。
土蔵は爆風でひびが入っていました。
茶室がまた燃え出し、四方から火が迫ってきます。
もはやこれまで、と本堂の下敷きになって死んでいる母と弟を残して、避難することにしました。
避難先の河原の惨状
父は台所に転がっていたやかんを持ってきて、ポンプの水を入れて出発します。
足が立たない妹は私が背負います。
ようやく近所の河原に降りた途端、異様なありさまに目を見張りました。
多数の兵隊たちが上半身裸で横たわり、あるいは座り込み、中には、川の中へはって行って水を飲んでいました。
近づいて見れば、帽子をかぶった部分だけ頭髪が残り、それから下のズボンまでの肌は黒ずみ、腕から手先にかけて皮がめくれ、垂れ下がっています。
兵隊たちは口々に「水をください。水をください」と手を差し出しています。
元衛生上等兵だった父は、多少医療の心得がありました。
「あれだけやけどをしていたら助からないだろう」と、持っていたやかんの水を飲ませてあげると「ありがとう」と言いながら飲まれました。
雨が急に激しく降ってきました。
雨に打たれていると、何か服が黒ずんできます。
父が「何かおかしい」と言い、トタン板の下で雨宿りをしました。これが“黒い雨”でした。
河原の土手から寺の方を見ると大火災となり、炎が竜巻になり、天に吸いこまれています。
また河原に戻って、寝ころんで休んでいました。
変わり果てたお寺の様子
夕方近くになると、火勢もだいぶ収まってきました。
意を決し、父らと寺に向かいます。
山門などは燃え尽きていましたが、土蔵や本堂はまだ燃えていました。
池のコイが腹を返して死んでいます。
手をつけてみると、水が熱くなっていました。
真っ赤な夕日が西に、また真っ赤な月が東から現れました。
本堂で母と弟が下敷きになった辺りは赤い炎、青い炎がまだメラメラと燃え立っています。
母の炎はどれだろう、弟の炎はどれだろうと思い、逃げずに母らと一緒に死ねばよかったと涙が出て止まりません。
平和を願って
1945年当時、父母、姉、私、3人の妹、2人の弟の9人家族でしたが、原爆により母、妹2人、弟1人の4人を失いました。
現在、寺の境内で原爆の被害に耐えた被爆菩提樹の種と、被爆ツバキの苗を国内外に贈る活動を行っています。
菩提樹やツバキの花の香りで世界を包み込み、核廃絶、世界平和が実現するよう祈念しています。
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被爆後、宝勝院に2本残った菩提樹のうち1本は、平和記念公園に移植されました。
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