被爆体験記
平和への思いを胸に
本財団被爆体験証言者 岸田 弘子
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プロフィール 〔きしだ ひろこ〕
1939年(昭和14年)生まれ。
6歳の時、爆心地から北へ1.5kmの横川町の自宅のトイレで被爆。
家族は、母、祖父、弟が自宅で被爆。
兄は国民学校2年生で、登校し教室で被爆。
父は徴兵され中国に従軍中だった。
2015年から被爆体験証言者として活動。
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原爆投下により「75年間は草木も生えない」と言われた広島で、亡くなった一人一人の無念さを思う時、今生きている、生かされている私は、この体験を後世に伝えさせて頂く使命ではないかと思いを深めました。
「あとで必ず戻ってくるから」
1945年8月6日朝、広島は快晴でした。
爆心地から1.5kmの地点に建つ私の家は、木造2階建て。父親(36歳)は中国に出征し、兄(8歳)は国民学校に登校して留守でした。
母親(34歳)と祖父(65歳)、弟(4歳)は家におり、私(6歳)は離れのトイレで、飛行機の音に気づき、窓から空を見上げていました。
しかし、機体を発見できず顔を引っ込めた、その瞬間、大きな爆発音とともに目の前が真っ暗になりました。
と同時に、トイレの土壁が崩れ落ち、気づいた時には、その土にすっぽり埋まって圧迫感を感じ、思わず「おかあちゃん、助けて!」と叫んだのです。
その声を聞きつけた母は、私を引きあげてくれました。
家は、すさまじい爆風で、あっという間に2階部分が吹き飛ばされましたが、奇跡的に、母、祖父、弟は柱の隙間にいて助かりました。
しかし、いつまでも自宅にとどまっていられない、いつ爆弾が落ちてくるかわからない。
足の不自由だった祖父は、「私のことはいいから、早く逃げなさい」と母をせき立てました。
母は祖父に「あとで必ず戻ってくるから」といい残し、弟と私を連れて出たとたん、玄関は音を立てて崩れたのです。
私たちは避難訓練のとおり郊外へ逃げようとしました。
通りには、みんな夢遊病者のように歩く人の流れがありました。
30分程して、黒い雨が降り、道端のトマト畑に逃げ込みました。
真っ赤に熟れたトマトに黒いしずくが垂れた不気味な光景は忘れません。
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我が子を背負う若いお母さん
夕方まで歩き続け、農家の庭で小休止。
炊き出しの白米のおむすびは最高の喜びでした。
そこに、1人の若いお母さんが、すでに息絶えた赤ちゃんを背負い、「この子に食べさせてやって」とすがるように言うのですが、誰もが自分の命で精一杯でした。
その姿は、私の脳裏に強烈に刻まれました。
一昼夜歩き続け、母の友人宅に身を寄せることになりました。
翌日から母は、祖父と兄を探しに出ました。
自宅は全焼し、祖父は灰になり行方不明のままです。
1週間後、兄が見つかりましたが、ひどいやけどで、長い間苦しみました。
原爆孤児の夫
私の夫は原爆投下のとき6歳で、両親と離れて疎開生活を送っていました。
そのお陰で被爆を免れたのです が、市内にいた両親や弟は犠牲となり、一瞬にして原爆 孤児となり、その後、親戚の家を転々としながら生きてきました。
証券マンとして働いていましたが、少年時代に
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「死んだ我が子を背負う若いお母さん」 製作者: 津村果奈、岸田弘子
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がまんしてきた寂しさを穴埋めするかのように、生活は荒れていました。しかし、仏教の教えに触れて大きく変わり、社会人として仕事に勤しむと同時に、周囲の困っている人に手を差しのべる生き方に喜びを見い出したのです。
しかしその夫は、30歳で腎臓病を患い、50歳で他界しました。
被爆体験証言者として
夫や母の人生、2人が私に向けてくれた愛情、そして何より平和を願って逝った原爆犠牲者の心を、一心に伝える時、耳を傾けてくれる修学旅行生、涙をぬぐって感想を述べてくれる外国人、聞く側と私が心一つになったように感じ、励みと勇気を頂く出会いです。
無念な思いを抱えながら命を絶たれた人の思いを忘れてはなりません。
ヒロシマは祈りの都市です。
命の尊さと平和の大切さを実感するところです。
核兵器を地球から無くすことを訴え続けていきたい。
平和な世界の実現を祈って!!
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