被爆体験記
語り継ぎたい「空白の十年」
本財団被爆体験証言者 清水 弘士
プロフィール
〔しみず ひろし〕

2011年の福島原子力発電所の爆発事故に衝撃を受けて被爆者団体で被爆体験の証言を始める。
2014年から2年間、広島県被団協と日本被団協の役員を務め被爆者運動を勉ぶ。
1942年生まれ、77歳。

1945年8月6日
 3歳の私は母とともに爆心地から1.6kmの吉島町(よしじまちょう)の自宅で被爆しました。 屋内だったので熱線の被害は避けられましたが、倒壊した家の下敷きになりました。 母が必死に頭上の材木を押しのけ、屋根を突き破って脱出して私を引っ張り出してくれました。 自宅のあたりは、それからすぐに火の海になりましたから、もう少し遅かったら私たちが生きていることはなかったでしょう。
 父は爆心地から約1kmの広島市役所南隣の職場で被爆。 吹き飛ばされ顔一面にガラスが突き刺ささり、胸は血だらけになったそうです。 炎に追われて市役所北側の公会堂前の池の水に入って避難しましたが、失神している間に同僚が千田町(せんだまち)の赤十字病院(爆心地から1.5km)に運んでくれたようです。 翌朝顔のガラスを抜いてもらい、()うようにして吉島町にたどり着き、お昼頃に母と再会できました。 でもやっと家族と会えたのに、その後どんどん弱っていって10月8日に亡くなりました。 なぜか、お腹全体が青黒く変色していました。 それを見た母は「父ちゃんはピカのガスをたくさん吸ったからだ」と言っておりました。 父は近距離で強い放射線を浴びたので、内臓が破壊されて青黒く変色したのではないかと私は推測しています。
 私自身も原爆から10年間、原爆症に苦しみました。 最初はひどい下痢、その後はお腹の痛み、鼻血、ぶらぶら病(*) などが続きました。 小学校の体育の時間はずっと見学で、体の弱い子供でした。 しかし中学校2年生になるとこれらの症状が消えて元気になり、進学して就職もできました。 趣味を聞かれると「登山です!」と答えるくらいに体力がついたのです。
 けれども40代半ば過ぎから次々と疾患が出てきました。 今では腎臓と頸椎(けいつい)に難病を抱え、心臓にも疾患があります。 兄は入市被爆者で、若い頃にはとても元気でしたが、75歳で耳の奥の(がん)を摘出して原爆症に認定されました。 今年87歳で、肺癌も発症して闘病中です。 何十年経ってからでも肉体を壊し痛め続ける原子爆弾は、まさしく悪魔の兵器です。 核兵器は一刻も早く地球上から根絶しなければならないと思います。
「空白の十年」
 私は被爆者の「空白の十年」について究明し語り継ぐことを、生涯の課題にしています。 広島と長崎の被爆者が、なんの支援もなく放り出された約十年間の苦しみのことを、「空白の十年」といいます。 それは戦後7年間、日本を占領支配したアメリカ軍を中心とする占領軍(GHQ)が発令した“広島と長崎に関する報道を禁止する”「プレス・コード」によってもたらされました。 これによって広島・長崎の惨状が秘密にされ、日本政府もこれに追随しました。 このために被爆者は、国の内外から医療や生活の支援を受ける道を一切閉ざされてしまい、世間から放置されてしまったのです。 この歴史は今では忘れられていますが、二度とあってはならない歴史的事実です。
 私たち家族もその犠牲者でした。 原爆で一切の家財と大黒柱の夫を失った母は、自分の力で私と兄を育てていかねばなりませんでした。 行商をやり、闇市(やみいち)で瀬戸物を売り、缶詰工場で日雇いで働いて、その日稼いだお金で食糧を買って私たちを養ってくれました。 母自身も原爆症に苦しんでいたのに医者にもかかれず、必死で働きました。 そうして貧しいながらも、なんとか人並みの生活ができるようになったのは、戦後5年以上経ってからのことです。 被爆者は戦時中の苦しみ以上の厳しい生活が続いたのです。 そのうえ何十年経ってからでも原爆の後遺障害に苦しまなければならない。 だから被爆者にとって戦争は死ぬまで終わらないのです。 これが戦争なのだと、私はしっかりと語り継いでいきたい。 そういう思いで証言に臨んでいます。
(米国戦略爆撃調査団 撮影)
広島駅前の闇市。 屋台は畳2枚のスペース。 昼は瀬戸物を売り、夜はそれを
片づけて親子3人が抱き合って寝た。 約1年ここで生活。
(*) ぶらぶら病―無気力となり、何もする気がおきない、疲れやすい状態となる、原因不明の症状・病。
原爆症の後障害のひとつ。
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