“被爆体験記”
私の8月6日
(財)広島平和文化センター 被爆体験証言者 國重 昌弘
プロフィール
[くにしげ まさひろ]

昭和6年4月3日生まれ。 県立広島二中2年の14歳の時、爆心地から約2キロの東練兵場で被爆。顔面、腕などに火傷した。
前日の8月5日は、旧広島県庁付近で建物疎開作業に従事し、「あの日」は交替の1年生322人が現在の平和記念公園で犠牲となった。

戦時下の中学生
太平洋戦争の末期、成年男子の多くが戦線や軍需(ぐんじゅ)工場に徴用(ちょうよう)され、 その穴埋めの形で、中学3年生以上は兵器工場などに通年動員され、 1、2年生は交替で建物疎開(たてものそかい)などの勤労奉仕(きんろうほうし)に従事していました。
  建物疎開は、B29爆撃機(ばくげきき)による焼夷弾(しょういだん)攻撃で全国の主要都市が次々と焼かれていくため、 軍都(ぐんと)・広島でも中心部の民家16,000戸を東西4キロ、幅100メートルにわたって取り壊し、 この空き地と7つの川で延焼(えんしょう)を防ごうという狙いでした。
  この作業に従事中に被爆死した中学・女学校の1、2年生は、約8000人にのぼります。 当時の建物疎開の跡が現在の平和大通りなのです。

8月6日
私たち県立広島二中(にちゅう)の2年生は、 8月5日に旧広島県庁(現在の加古町(かこまち))周辺の建物疎開作業に従事し、 6日は広島駅裏の東練兵場(ひがしれんぺいじょう)にいました。 この日は登校日だったのですが、急遽(きゅうきょ)、練兵場の芋畠(いもばたけ)の草取りになったのです。
  午前8時、先生の「集合!」の声に2年生約300人が整列を終えた時、 級友のひとりが「空襲(くうしゅう)警報は解除になったのに、爆音がするのう」と言うので、上空を見ると、 東から飛んで来たB29が急に北に向きを変えた、と思ったら光るものが2つ、3つ…。
  私の記憶は、そこまでです。

ピカドン
気がついた時は、熱線と爆風でなぎ倒され、芋畠の中に折り重なっていました。 白い煙の中でうごめく人影と級友の顔がやっと見え始めたと思ったら、どの顔も灰色で、血の気がない。 土埃(つちぼこり)で汚れたのかと、友人の頬をさわると、顔の皮がズルッと()けました。 思わず手が震えました。 隣の友達が「お前の方がもっとひどいで」と言うので、そっと頬に触れたら、皮がズルリと垂れ下がりました。
  これでは草取りどころではない。 急遽「作業中止。解散」ということになりましたが、顔全体と左腕に火傷していた私は、(しばら)く芋畠に座り込んだまま動く気力もありません。
  上空を見ると、積乱雲のような雲が、赤い炎を巻き込んで、物凄い勢いで天空へと昇っていく。 市の中心部は一面火の海で、半身火傷の兵隊、下半身ボロを下げたような女学生の集団、火傷と包帯の警官に引率された囚人らしき群れ… いずれも幽霊の様に、両手を前に差し伸べたような姿で逃げてきます。

逃避行
昼過ぎになったころでしょうか。
吉島(よしじま)陸軍飛行場方面に逃げてゆく人々
(「市民が描いた原爆の絵」池亀春男(いけがめ はるお)さん作)
治療や救援の見込みもないので、市の西部から通学している仲間7人と、燃えている中心部を迂回して、 戸坂(へさか)緑井(みどりい)己斐(こい)のコースで家を目指しました。 道端には瀕死(ひんし)の重傷者が「水をください」と(うめ)いていましたが、 私たちも歩くのがやっとの状態で、助けるすべもありません。 そのうち私ら自身、ノドの渇きに耐えられなくなり、途中の救護所(きゅうごしょ)で「水を下さい」と訴えましたが、 「火傷の人が水を飲んだら死ぬ」と、油のようなものを塗ってくれただけで、飲ませてくれません。 そんな時、農家の裏にある井戸を見つけ、「もう我慢できん。死んでもええ」と、釣瓶(つるべ)で汲んだ井戸水を、私が最初に飲みました。 あの時の冷たい水の味は生涯忘れることはできません。 もっとも、10分も歩かぬうちに火傷部分が水入りのゴム風船のように膨らみ、救護所で聞いた警告に怯えることになりましたが。
  夕方近く、やっと己斐駅までたどりつき、軍の救援トラックに乗せてもらって廿日市(はつかいち)の自宅まで帰りました。

(かたき)()
両親の顔を見た時は涙が止まりませんでしたが、その夜から新たな地獄が始まりました。 母親に頭を押さえられ、父親がピンセットで火傷の皮膚を()ぎ、 毎日4回、カサブタを剥いで白い油薬(あぶらぐすり)を塗りました。 それはギザギザの缶の蓋で引っ()かれるほどの痛みでした。 そんな時、「痛いよ、この仇はとってやる」と呻いていたそうです。

被爆証言
1日違いで生きながらえた私たち2年生は、「身代わり」となって死んだ1年生に対するうしろめたさのようなものを引きずって生きてきました。 そして被爆65年、テレビで戦後生まれの(かた)()の存在を知り、 生き残った私たちこそ証言すべきではないかと気づかされました。 それが石に刻まれた1年生の無念の思いを代弁することになるし、地球上から核兵器を廃絶することが、私の「仇討ち」にも通じると思うからです。
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