“平和について思う”
広島と平和
広島大学 名誉教授 ピーター・ゴールズベリ
プロフィール
英国サセックス大学卒業。米国ハーバード大学大学院修士課程を経て、ロンドン大学で博士号を取得。専門は比較文化論、異文化間交渉、言語学。 1980年から広島大学総合科学部の英語教員となり、以来広島で数々の平和活動に携わってきた。1994年、同学部教授となり、2008年3月定年退職。
趣味の合気道は6段の腕前で、現在は国際合気道連盟の理事長を務める。
広島平和文化センター評議員、広島市外国人市民施策懇談会座長、広島日英協会理事。 前広島インターナショナル・スクール理事長、前広島県警東広島署警察協議会委員。

私は30年以上広島に住んでおり、広島平和文化センターとの関わりも長年に渡ります。 海外から友人が来ると、彼らは必ず平和記念資料館を訪れるのですが、反応はみんな同じ。 1945年8月6日に、この街と、ここで暮らしていた人々に起こったことに対する、深い衝撃です。 この衝撃は必然的に、「ヒロシマの心」―世界恒久平和と核兵器のない世界という悲願―についての熟考をうながします。
  私もこのことについて考えてみたいと思います。

分厚いオックスフォード英語辞典には、「平和」について幾つか定義が載っていますが、主なものは2つあります。
 1、戦争や敵対行為からの自由、または、その停止状態。他国、他共同体との戦争状態にない国や共同体の状態。
  ここで平和は、何かがないこと―この場合は戦争や戦闘―によって、いわば消極的に定義されており、国家の様な大きな組織に適用されています。 しかし、平和の実際の状態について積極的に述べているわけではありません。
 2、他者との(いさか)いや不和からの自由。友好的状態。協調、親善関係。
  2番目の定義は個人に適用されており、狭義(きょうぎ)の定義といえますが、より積極的で、友好、協調、親善の状態について述べています。 「ヒロシマの心」や広島市の「国際平和文化都市」という名称が意図するところの「平和」は、最初の定義だけでなく、両方の定義の意味において理解する必要があるでしょう。
  最初の定義は国や共同体に関するもので、秋葉市長を長とする大きな共同体としての広島市にあてはまります。
  毎年8月6日に行われる平和記念式典は、国際的に重要な意味を持つ大きな行事です。 広島の、そして8月9日の長崎の原爆の日について報道されない国は(ほとん)どありません。 長崎市とともに広島市は、世界平和と核兵器廃絶という大問題に全世界の関心を集めるために活動してきました。 平和市長会議や、世界に被爆の実相を伝えるための数々の国際交流は、この任務に不可欠な取り組みです。 この点において、広島市―市長、市役所、及び平和文化センター―はこの任務をこの上ない水準で遂行(すいこう)しています。 また、言うまでもないことですが、全ての目的を達成し、全ての核兵器が廃絶されるまで、この任務の継続が必要不可欠です。 しかし、この任務がついに達成されたとしても、それによって全ての戦争や紛争が消滅するというのは短絡的(たんらくてき)な考え方です。 核兵器が廃絶されても、テロや海賊行為、武力衝突を含む政変が起こる可能性はまだ残されているのですから。
  けれども、2番目の定義はそいうった広範囲の、より困難な問題に大いに関連があります。 この定義は人と人との間の友好、協調、親善の状態に関するものだからです。 平和な状態とは、人と人との間の友好状態の維持と発展を無条件に必要とするものなのです。

広島について言えば、「人」とは、広い意味での「広島の人々」のことであり、日本人、在日外国人、長期または短期の滞在者を全て含みます。 「国際平和文化都市・広島」は、この意味でも、この上ない水準であるべきです。
  広島は、大勢の私のような人々にとっても故郷であり、海外旅行から広島に戻ると、とても嬉しいものなのです。 私の場合、だいたい新幹線で広島に帰ってきます。 新幹線は最後のトンネルを抜けると減速し始め、長い高架の上を広島駅へ向かい、街の上を滑ってゆきます。 南の方を見れば素晴らしい街の眺めが広がっています。 旅行者にとっては、これが広島での最初の見ものとなります。 私にとっては、英語のことわざでいうところの「Absence makes the heart grow fonder. (離れていると思いが募る)」です。
  そんな私でもなお、広島市―広島の人々―は、名称としてではなく本当の意味で「国際平和文化都市」をつくる義務―あるいは課題―があると感じています。 国際平和文化都市という名称は、ただのスローガンにも、名称どおりのものを描写した正確な記述にもなりうるのです。 しかし、名と実が一致するには、まだ時間がかかりそうです。
  平和文化センターとの長年の関わりから、広島には地域レベルでの広範囲の取り組みや事業を生み出す膨大な善意の貯蔵があり、しかもおそらく、その大部分はまだ手つかずのままだと、私は確信しています。 機会さえあれば、人々は心から人を助けたいと望んでおり、広島が本当に平和の象徴として特別な存在であってほしいと願っているのです。
  一方で、長い間ここに暮してきた経験から、私は広島の別の側面についても確信があります。 広島は平均的な都市なのです。 大都市ですが、機能は中心部に集中しています。 にぎやかな所もあり、田舎の雰囲気を持つ静かな所もあります。 だからこそ、ここに暮すのは心地よいのです。 しかしやはり、同規模の日本の他都市が抱える多種多様な市民生活上の問題を同様に抱えている、平均的な都市なのです。
  数日前、親友と夕食をとる機会がありました。 彼も私同様、長く広島に住んでいます。 彼は、市民が実際に参加できそうな平和活動やプロジェクトのリストを作っている、と話してくれました。 私たちは、もっと草の根の活動が必要だ、という点で意見が一致しました。 後日話をした他の友人たちも、この点について同意見でした。 国際平和文化都市というのは素晴らしい名称ですが、まだ現実とのギャップがあり、そのギャップを埋めるためには、さらなる努力が必要なのです。
  前述のように、私は「平和」について2つの定義をあげ、これを広島にあてはめてみました。 2番目の定義は1番目の定義に勝るとも劣らないほど重要で、そして、実証するのがより難しい定義だと思います。
  課題は膨大にあります。 しかしそれは、克服する価値のある課題なのです。
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