広島平和記念資料館 平成24年度第2回企画展
君を想う −あのときピカがなかったら−
■期間:7月15日(月)まで ■会場:平和記念資料館東館地下1階展示室(5)
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1945年(昭和20年)、8月6日、世界で初めて広島に原爆が投下されました。
まちは破壊され、多くの人が亡くなり、傷つきました。
かろうじて生き残った人々は、さく裂したときの閃光から、原爆のことを「ピカ」と呼ぶことがあります。
あの日を境に、大切な人やものを奪われ、自らも傷つき、人々はどのように生き抜いてきたのでしょうか。
「あのときピカがなかったら・・・」。人々は幾度そう思ったでしょう。
広島平和記念資料館には、約21,000点の被爆資料が寄贈されています。
いずれも原爆の悲惨さを伝える資料ばかりです。
この企画展では、多くの遺品を中心に、原爆によってなくなった人々や家族を失った人々の思いを紹介します。
■ あの日の朝
1945年(昭和20年)8月6日。
広島市内中心部では、空襲による火災の延焼を防ぎ、避難場所を確保するため、大がかりな建物の取り壊し作業が行われていました。
原爆により、広島は全市が壊滅、大火災となり、市内は大混乱に陥りました。
負傷して血だるまになった人々は、襲いかかる火炎の中から郊外へと、命からがら逃げだしました。
広島市郊外へ逃げた人々は、軍のトラックや汽車で送られた負傷者も含め約15万人にのぼり、宇品港は瀬戸内海の島々に親戚を頼って逃げる人々でごったがえしました。
避難してきた人々の受け入れ先も救護活動に追われ、大混乱になりました。
比較的被害が少なかった陸軍船舶司令部所属部隊(通称「暁部隊」)を中心に、近郊からも含め、軍関係者や、警察官、医師たちが被災者の救出、応急手当、輸送、死体の収容、市民への炊き出しなどを行いました。
かろうじて火災を免れた病院や広島市周辺部の医療機関、各地に急設された臨時救護所は、どこも負傷者であふれました。
救護所には負傷者が絶え間なく運び込まれ、肉親を呼ぶ声、助けを求める声が一晩中続きました。
■ 君を想う
「娘に一目会いたい」、「弟を孤児にしてはならない」被災した人々は家族を想い、その気持ちは傷ついた体を動かしました。
「お父さん、待って」、「お母さんには坊やがいるでしょう」耐えがたい苦しみのなかで、最期まで想い続けたのは大切な家族のことでした。
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娘に一目会いたい
田川アサヨさん(当時23歳)は雑魚場町で被爆し、全身にやけどを負いました。
アサヨさんは実家に預けていた娘の身を案じ、必死で帰り、娘さんの無事な姿を確認し、翌7日に亡くなりました。
寄贈/田川 松代 氏
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■ 私はここにいる
被爆から日が経つにつれ、焼け跡には、帰ってこない親族や知人を捜しに行く人々が増えていきました。
傷つき、変わり果てた姿でも家族の強い思いが互いを引き寄せ合うのでしょうか。
「私はここにいる」。
混乱の中でも奇跡のような出会いがありました。
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被爆から42日目に
西本ヲユキさんの三男、西本博哉さん(当時12歳)は、建物疎開作業中に被爆。
被爆から42日目、博哉さんの捜索をあきらめようと思い、ヲユキさんは博哉さんが作業していた辺りで手を合わせていたところ、石と石の間に白い布を見つけました。
引っ張り出してみると、博哉さんが使っていた教練手帳入れでした。
寄贈/西本 ヲユキ 氏
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■ 行方がわからないまま
毎日毎日、必死になって肉親や知人を捜し回っても行方がわからず、遺骨を持ち帰ることさえできない人々もいました。
戻ってこない家族の消息を確認できない現実を受け止めようとしつつも、あきらめきれない気持ちを抱え、人々は焼け跡や自宅に残された持ち物を大切に保管してきました。
■ ピカがすべてを変えた
原爆は、多くの人々の命を奪っただけではなく、残された人々の生活も変えました。
生き残った人々は、精神的・身体的な苦痛だけでなく、一家の大黒柱を失ったり、原爆で障害を負ったため働けないなどの理由から、経済的な問題も抱えるようになりました。
ピカにあったことを忘れようにも忘れられない、常に被爆した事実に向き合わざるをえない過酷な生活を強いられたのです。
○原爆供養塔
1946年(昭和21年)1月、被爆直後に市内各地で仮埋葬された人々の遺骨を収容し供養するため、「広島市戦災死没者供養会」が設立されました。
同年五月、慈仙寺鼻に戦災死没者供養塔が、同年7月には納骨堂・礼拝堂が、市民の寄付によって建てられました。
そして、1955年(昭和30年)7月には、平和記念公園の西北隅に、既存のものに代わり現在の原爆供養塔が建てられました。
広島市内の復興に伴い、道路や家屋工事現場などから見つかった被爆者の遺骨は供養塔に集められました。
供養塔内部には数万の犠牲者の遺骨が納められています。
「あのときピカがなかったら」。
原爆が投下されなければ多くの人が悲惨な死を迎えることも、生き残った人々がつらく悲しい記憶を背負って生きていくこともなかったはずです。
あの日、大切な家族を失った人々が経験したこと、そして絶望のなかで悩み苦しんだ日々は、私たちの想像が及ばないほど壮絶なものでしょう。
「他の誰にもこんな思いをさせてはならない」。
原爆による被害者たちの想いをつなぐため、私たちができることは何でしょうか。
あらためて考えてみませんか。
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【お問い合わせ】 平和記念資料館学芸課まで TEL:(082)−241−4004
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