追悼平和祈念館企画展
原爆の子 広島の少年少女のうったえ

■ 期間 平成26年1月1日~12月28日
■ 場所 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館地下1階 情報展示コーナー
■ 入場 無料

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館では、被爆の実相を伝えるため、毎年テーマを定めて企画展を開催し、被爆体験記などを展示しています。
 今回は、被爆から6年後に出版された「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」の中から、被爆当時4歳から小学校3年までの子どもたちが書いた被爆体験記67編を紹介しています。
 これらの被爆体験記には、子どもたちが自ら体験した戦争や原爆の悲惨さ、平和への思いがつづられています。
 今回、展示している被爆体験記から、田中清子(きよこ)さん(当時小学校3年)と浅枝(あさえだ)正忠(まさただ)さん(当時小学校3年)の体験記(抜粋)をご紹介します。

田中さんは被爆後、母と一緒に似島(にのしま)の収容所へ向かう船の中で、重傷の少女と出会います。
 ……お母さんのすわっている前に、私と同じ年くらいの女の子がいました。 その女の子は、体中にやけどや、けがをしていて、血がながれていました。 苦しそうに母親の名ばかり呼んでいましたが、とつぜん私の母に、「おばさんの子供、ここにいるの?」とたずねました。 その子供は、もう目が見えなくなっていたのです。 お母さんは、「おりますよ」と返事をしました。 すると、その子供は「おばさん、これおばさんの子供にあげて」と言って、何かを出しました。 それはおべんとうでした。 (中略) お母さんが、その子供に「あなた、自分で食べないの?」と聞くと、「私、もうだめ。それをおばさんの子供に食べさせて」と言ってくれました。 (中略) しばらく川を下って船が海に出た時、その子供は「おばさん、私の名前をいうから、もし私のお母さんにあったら、ここにおるといってね」と言ったかと思うと、もう息をひきとって死んでしまいました。 (中略) 私はお母さんと一しょに泣きました……

浅枝正忠さんは運動場で遊んでいた時に被爆し、母や姉と共に、トラックで可部(かべ)(広島市安佐北区)のお寺に運ばれました。
初版本(1951年)
 ……お寺の生活をどうして筆にあらわしてよいか、僕はその時そこにいた人でないとわからないと思う。 焼けただれた人たちが、毎日うなりながら日を送り、身よりのない人たちには、うじ虫が体中にわき、何かわからないうわ言を言いながら死んでいく姿は、どうして言いあらわしたらよいのだろうか。 それは、生きながらの「地獄」といったらよいのだろうか。 この人々は、敗戦も知らず、戦争をにくみ、平和を愛しながら死んでいかれたことだろう。 (中略) 最後に書きたい言いたいと思うことは、「戦争とはなにか」「平和とはなにか」「平和を守るには、なぜあの恐ろしい原子爆弾がいるのか」「人類と科学とが、なぜ同一に発達しないのか」僕の胸の中には、いつもこれだけの疑問がとけないで、ぶすぶすとくすぶっている。……

体験記の全文は、館内の情報展示コーナーと体験記閲覧室で読むことができます。 また、当館のホームページ>>では5人の体験記を掲載しています。
 会場では、体験記とともに、被爆直後に撮影された写真や市民が描いた原爆の絵、子どもの衣服等の被爆資料も展示しています。 また、体験記を、関連する写真や絵を用いた映像と音声で紹介しています。 この映像については、過去の企画展で制作したものも含め、体験記閲覧室で視聴することができます。 また、映像は平和学習用資料として、DVDでの貸出しも行っておりますので、ご希望の方は当館までお問い合わせください。
本の贈呈式(1952年) / 提供:早志(はやし)百合子(ゆりこ)

【お問い合わせ】 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
TEL:(082)543-6271

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