平和の見方と平和創造の方法
― 被爆70周年 広島平和研究所の取組 ―

広島平和研究所 所長 吉川 元
プロフィール
〔きっかわ げん〕

1951年、広島市生まれ。 一橋大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学、博士(法学)。 主著に『民族自決の果てに―マイノリティをめぐる国際安全保障』(有信堂、2009年)、『国際安全保障論―戦争と平和、そして人間の安全保障の軌跡』(有斐閣、2007年)、共編著に『グローバル・ガヴァナンス論』(法律文化社、2014年)などがある。

1.誰のための平和か
 @ 平和は何処へ

  国際社会は何とも混沌としている。 冷戦期の核戦争の危機はひとまず去ったというのに、核兵器の廃絶の兆候はない。 それどころか、自然環境破壊の危機、国際テロ戦争、貧富格差の拡大など、いまグローバル危機がひたひたと迫っている。 それに「アラブの春」に続く中東の混乱はシリア内戦へと発展し、「イスラム国」のテロ戦争の台頭を許し、ウクライナ東部の民族の戦争も解決の見通しが立たない。
  アジアに目を向けると、インド、パキスタン両国が核兵器を所有したのに続き、北朝鮮の核開発によって朝鮮半島の危機は深刻化している。 しかも東アジアの軍拡は続き、日韓関係と日中関係では領土問題が発生し、そして平和主義に徹してきたはずの我が国で、集団的自衛を根拠にアメリカの戦争への参加が現実味を帯びてきている。
  日本を取巻く東アジア一帯は、いつのまにか危険な紛争地帯となった。 本稿の目的は、第一に、我々が渇仰(かつごう)してきた国際平和の見方を今一度、国際政治の現実を踏まえつつ検証するとともに、武器なき平和と人間の安全保障の実現の方策を提案することにある。 第二に、核なきアジアの平和創造に向けた広島平和研究所の取組みを紹介することにある。

 A 平和の陰で
  冷戦が終わり、少しずつ明らかになったことがある。 実に多くの人々が平和のために、友好関係のために、そして国家安全保障のために、自由を奪われ、殺戮(さつりく)されていったという事実である。 著しい人権侵害はいうに及ばず、ジェノサイドというすでに人口に膾炙(かいしゃ)している言葉では説明しきれないほどの無残な殺戮が平和の陰で発生していた。 民衆殺戮(デモサイド)、政治殺戮、階級殺戮といった用語を新たに考案せねばならないほど、平和の陰で人間の抑圧と殺戮が続いている。 平和であっても人間には必ずしも安全ではない。
  20世紀に発生した戦争(内戦を含む)でどれだけの人々が犠牲になったのであろうか。 20世紀に発生した戦争の犠牲者の数は1億3400万から1億4600万人に上る。 第二次世界大戦後の1945年からユーゴスラヴィア紛争が収束する1995年にかけて戦争の犠牲者数は3000万人を超える。 しかも、一般市民の犠牲者の割合は上昇傾向にあり、それにつれ難民も急増している。 '60年代初頭には百数十万人でしかなかった難民数はついに5000万人に達した(2014年現在)。
  我々は、戦争さえなければ平和で安全であると考えがちである。 実はそうでもない。 平和の陰で戦争とは別の暴力が多くの一般市民、無辜(むこ)の民の命を奪ってきた。 民衆殺戮である。 民衆殺戮とは政府または統治者による統治下の人民の大量殺戮を意味する最近の政治用語である。 それには、ジェノサイド、銃殺といった政府による意図的な人民の殺戮に加え、政治犯の拷問死、捕虜の虐待死、政治的な理由でもたらされる餓死など、政府が意図的に無視したことで発生する一般市民の殺戮も含まれる。
  いったいどのくらいの規模の民衆殺戮が発生したのであろうか。 民衆殺戮の用語を考案したランメルによれば1900年から1987年までに発生した政治権力による民衆殺戮の犠牲者数はおよそ1億6900万人に上る。 その後、ランメルは、1987年から1999年の間に新たに生じた民衆殺戮130万人、中国の大躍進の際に発生した農民階級の殺戮3800万人などを含め20世紀の民衆殺戮はおよそ2億6000万人に達すると論じる(20th Century Democide http://www.hawaii.edu/powerkills/20TH.HTM 2008年11月16日取得)。
  これまでの平和論ではあまり語られることのなかった民衆殺戮は、主として途上国、および社会主義諸国で発生した。 それは基本的人権を保障せず、民主的な統治を行わない政府が被治者に対して行った国家犯罪である。

 B 人間の安全を脅かす平和秩序
  平和であってもそれは人間にとって必ずしも安全な世界であるとは限らない。 平和時に、それも「人権の国際化」時代と呼ばれた時代に発生したこうした国家犯罪がもたらす人道的危機に対して、国際社会はなぜか沈黙し、看過すらした。 いったい平和は誰のためのものであったのか。 見て見ぬふりをせざるを得ない特段の事情があったのであろうか。 実は、国際社会には他国の国内問題へ干渉してはならないという掟(国際法)があり、さらには人道的危機を看過する国際政治の構造があることに注目したい。
  そもそも国際連合で確立された国際平和秩序に問題が潜んでいた。 国連が確立した国際平和秩序とは、主権平等、内政不干渉、人民の自決権、および領土保全の原則を軸に形成される国際平和秩序である。 自由主義を標榜する欧米諸国をはじめ、ソ連・東欧の社会主義諸国、アジア・アフリカ諸国の開発独裁国家はいずれも主権平等と内政不干渉原則を欲した。 国際社会がこれらの原則を遵守して各国とも互いに他国への侵略と内政干渉さえ控えれば、どの国の政府にもなんら倫理的拘束を受けずに行動の自由が保障されるからである。
  一方、人民の自決権と領土保全原則は、政府の統治基盤が脆弱な非民主的国家や国民統合が未発達な国が特に欲した原則である。 人民の自決権の国際政治上の含意は、政府は好き勝手に自国を統治してよいということを意味するからである。 また領土保全原則はもともと領土的一体性を保全するために外部侵略を禁止することを意味したが、実際には領土保全の名目で相互に民族の分離独立を認めないことを意味する重要な原則へ援用することが可能であったからである。 国際平和秩序を規律するこうした国際原則が、人民の抑圧、著しい人権侵害、さらには政府による人道的危機を看過する国際要因になったのである。

 C 誰のための援助か
  国際社会が政府による非人道的な行為を看過せざるを得ないのは、国際平和秩序のせいだけでは説明がつかない。 国際援助の在り方にも、その一因があった。 そもそも援助とは何か。 誰のための、何のための援助なのかについて考えてみよう。 植民地支配下にあったアジア・アフリカの人民に無条件の独立が認められ、独立した国は大挙して国連に加盟した。 その際、かつて日本も経験した西欧化(文明開化)を求められることもなく、国内統治のあり方が問われることもなかった。 侵略戦争は減少し、領土併合はまれな現象となり、国家の存続が無条件に保障される時代となった。 とはいえ、独立したての途上国では、国家建設に必要とされる人材が不足し、国際社会からの援助なしには国家建設の見通しは立たない。 そして経済的にとうてい自立できそうにない国を国際社会が認めた以上、これらの国を国際社会は支えていかなければならなくなった。
  西欧先進諸国は、経済協力開発機構(OECD)の下部機構の経済開発委員会(DAC)を通して開発援助を行うことになる。 1965年には途上国の開発と発展を支える目的で国連開発計画(UNDP)が設立され、国連はUNDPを通して途上国に援助を始める。 しかしながら、国際援助はけっして途上国の苦境を思うあまりに行われる慈善事業ではない。 それは侵略に代わる平和時代の新しい勢力拡張の方式であった。
  そのことは友好国の数がものをいう時代状況を出現したことと関係している。 侵略行為が禁止され、主権平等が約束され、人民の自決、領土保全、内政不干渉が約束される国際平和のもとでは、友好国の数を増やすことが勢力拡張の方式となった。 しかも、冷戦の始まりが国家の数が急増する時期と重なったこと、友好国獲得競争に拍車をかけた。 たとえば国連の原加盟国51カ国の中に占めるアジア・アフリカ諸国は13カ国(25%)にすぎなかったが、15年後の「アフリカの年」1960年には国連加盟国は100カ国に倍増し、'62年には米ソ超大国のそれぞれの同盟国の合計数よりも非同盟国の数が上回ることになる。 そして'64年には途上国は先進国から援助を引き出すために、国連で「77カ国グループ」を結成し、アジア・アフリカ諸国は国際社会では多数派を形成するようになる。
  途上国は、国際社会で多数派を形成するにつれて、東西両陣営の取込み対象となる。 米ソ両超大国を筆頭に東西両陣営は被援助国が独裁体制であろうと権威主義体制であろうと、友好国として繋ぎ止める目的で食糧援助、軍事援助、あるいは経済援助など戦略的援助を供与していった。 アメリカの援助は、反共産主義の軍事独裁国家に対して、あるいは非友好国内の反共勢力に対して戦略的援助を続けた。 韓国やパキスタンの軍事政権に対して、また中南米の独裁政権に対してアメリカが援助を惜しまなかったのは、同盟国として、あるいは友好国としてこれらの国を繋ぎ止めるためであった。
  一方、ソ連も、社会主義国家、あるいは世界各地の反政府的共産主義勢力に対して援助を惜しまなかった。 特に1970年代には、ソ連はコンゴ、アンゴラなど10カ国の社会主義政権を軍事援助で支えた。 ソ連は東欧の同盟国に対しても戦略的援助を行っている。 自国民の福祉を犠牲にしてまでソ連よりも生活水準の高い東欧諸国に対して行ったソ連の援助目的は、同盟国を繋ぎ止めることにあった。 ところが'81年をピークにその後、ソ連の対東欧援助は低調になる。 やがて金の切れ目が縁の切れ目となり、東欧諸国のソ連離れが進み、ついに東欧民主化革命の結果、東側陣営(ソ連ブロック)が崩壊したのであった。
  私たちが至高の価値として渇仰する平和というものは、実際には政府間の友好関係を維持することで達成される平和であり、そして善行とみなされてきた国際援助は、主として他国政府を味方に繋ぎ止める目的で行われる戦略援助であった。 核戦争の脅威があまりに深刻であったことから、国際紛争が核戦争に発展するのを恐れるあまり、人権問題、民衆殺戮、さらには民主主義の問題に国際社会は互いに干渉しないことで維持された平和である。 平和が到来すると勢力拡張の方式がかつての領土拡張から同盟国および友好国の獲得に変わり、友好国の数頼みの国際政治の新時代に入ったことが、人権の国際化を阻み、自由と平等、民主主義の普及を阻んだといっても過言ではない。 援助を(てこ)に友好国の獲得競争に走り、身内に甘く、敵対陣営に与する国には厳しく当たり、友好国の人権問題は国際問題に取り上げることなく、看過したのである。 平和であっても人間にとって必ずしも安全な世界ではない。 それでは国際平和と人間の安全保障を両立させるにはどのような方法が考えられようか。

2.平和創造の見方
 @ 北風と太陽

  広島と長崎ほど切に平和を祈り、平和を訴えきた町は私は他に知らない。 日本ほど平和主義に徹した国も、そう多くはない。 それではなぜ東アジアの国際政治状況が危機的であるのか。 なぜ東アジアでは相も変わらず、著しい人権侵害が行われ、軍拡が進んでいるのであろうか。 こうした問いかけが、私の平和創造の取組の根本にある。
  戦後50周年に当たる1995年、私はヒロシマ研究会を立ち上げ、5年後の2000年に『なぜ核はなくならないのか―核兵器と国際関係―』(山田(やまだ)(ひろし)・吉川元、編著、法律文化社)を世に問うた。 同書の副題が「核兵器と国際関係」であるのは、核廃絶に向けた私なりの研究手法のこだわりがあったからである。 つまり核兵器開発の背景と核廃絶が困難な訳とを国際関係の文脈から解明しようとしたのである。 なかでも私が強調したかったのは、政府をして核兵器開発に向かわせる国内政治事情に加えて、国際社会で孤立する国が「核の保険」をかけることで国家体制(政権)の存続を図ろうとする国際政治の仕組みを核開発の国際要因として注目したからである。 国内統治の仕組みと国際政治の仕組みにメスを入れることなく、核保有国に核廃絶を迫り、核廃絶に向けた道標を示したところで、その実現可能性は乏しいと考えたからである。 国家の独立も国家の安全も保障されず国際社会で孤立していると考えたとき、政府の指導者が人類史上最強の武器である核兵器を手にして、外圧をはねのけようとする国家安全保障戦略の論理も理解できる。
  となれば何をどのように変えていけばよいのか。 その疑問に答える上で、イソップ寓話をもとに、核廃絶の手法を「北風」政策と「太陽」政策に例えて考えてみたい。 核開発に対して制裁を加えたり、廃絶の期限を設定したりする方法は「北風」政策である。 それだけでは十分ではない。 国の存続も人間の安全も保障され、武器を不要とするような安全保障共同体の創造を目指すのが「太陽」政策である。
  明治日本の国づくりを思い起こしてみたい。 江戸時代に許されていた各藩の武装は解除される一方で、明治新政府は国軍と警察機構を創設し、武力の国家統制と一元的管理を実現した。 他方で、国民意識(日本人意識)を醸成し、紛争解決の制度(司法)を確立し、暴力に訴える必要もなく、暴力に怯えることもない安全な法治国家の建設に取組んできた。
  政治的に安定している国であればどの国でも警察制度、福祉制度、医療制度、教育制度といった様々な制度が確立されている。 こうした制度のおかげで国民は、安全かつ安心して生活できるのである。 国際社会にも同様なことがいえる。 どの国とて、安全に、かつ安心して生存できる生活圏の創造の道標を示すことこそ太陽政策である。

 A 欧州の共同体構築の経験
  同上の国家建設の方法は、中央政府のない国際社会でも応用が効く。 今では平和地帯とみなされている北欧、EU、北米に戦争が発生せず、人権尊重を含め人間の安全が保障されているのは、国家の枠組みを超えた国際安全保障共同体が形成されているからである。 そのことを理解するには、EC/EUの歴史を一瞥(いちべつ)すれば容易に理解できよう。
  そもそもECの起源は、独仏の和解と戦争予防のための共同体創造に向けた国際協調の取組にある。 民族憎悪の渦巻く第二次世界大戦直後の欧州にあって、敵対関係にあった国の間の国際統合など至難の業であったはずである。 石炭や鉄鋼の戦略物資の獲得を目指して侵略戦争が行われたことから、こうした戦略物資を共同で管理し、経済統合を進め、国益の概念を限りなく薄めることで戦争を予防しようとしたのである。 こうした平和創造の目的に沿って欧州経済共同体、欧州石炭鉄鋼共同体および欧州原子力共同体の3つの共同体が統合され、欧州共同体(EC)へと発展したのである。
  ところで平和創造というものは、制度設計の図面を引く学者の専門知識を必要とする。 学術的な研究成果を基礎に、実践的かつ有効な方法論の採用なくして国際安全保障共同体の創造は不可能である。 第一次世界大戦を機に、国際政治学、国際法学、平和研究など、新たな学問分野が開拓され、研究者は平和創造の方法論の開発に努めてきた。 その点で、とりわけ国際法学、国際政治学、さらには国際関係論の研究成果を安全保障共同体創造に取入れ、応用発展させねばならない。
  実はEC/EUは、政治家と研究者が一体となって安全保障共同体を構想し、その実現に取組んだことで初めて実現した。 経済統合から始まり、政治統合に進み、やがて安全保障共同体へと発展していく工程表を研究者が設計し、そして政治家がその設計図に基づいて共同体創造に取組んだ。 このような壮大な国際平和創造事業は、学者が描く国際統合の処方箋を実現しようとした慧眼(けいがん)の士がいたから実現できた。 フランスにジャン・モネ、シューマン、ドゴール、そして西ドイツにアデナウアーといった欧州統合の立役者の決断と指導力抜きには欧州統合はかなえられなかったはずである。
  EC/EUの発展の歴史とその諸問題は、社会科学系の大学であれば、たいていどの大学でも国際統合論、あるいはEU論として開講されている。 それは国際関係論の花形の科目として、欧米諸国のみならず、世界各地で提供されている専門科目である。
  さて東アジアの安全保障共同体といえば、夢のような話、実現するにしても遠い先の話とみなされるかもしれない。 アジアの特殊性を取り立てて反対する向きもあろう。 大東亜共栄圏の再興との理由で拒否反応を示す人もいよう。 しかし、それでも核兵器のない平和を訴え続けてきた広島は、この課題を避けて通ることはできない。

3.広島平和研究所の取組
 @ 基本方針

  平和の見方が国際平和に限定されてきたことに、そして平和、友好、援助といった国際社会では善行とみなされてきた国際政治の実践活動の負の面に目をつぶってきたことに、問題がある。 安全保障政策に人間の安全保障の視角が欠落していたことにも問題がある。 平和と国家安全保障が対立的な概念としてとらえられてきたことが平和と人間の安全保障の双方を追求する複眼的手法の開発の妨げとなった。 国際平和の創造とともに人間の安全保障の実現を不可分一体であると見做し、国際平和と人間の安全保障の双方を実現しようと努める複眼的な平和の見方を忘れてはならない。 以上の問題関心に基づき、広島平和研究所の平和創造に向けた視点と新たな取組みを紹介する。
  世界最初の被爆都市である広島に設立された広島平和研究所の使命は、平和の見方に再考を促し、学問・研究分野での知見を今一度、結集し、それを平和創造に活かすことにある。 先にふれた「太陽」政策とは、東アジア共同体創造のことを意味する。 核兵器はおろか武器を必要としない東アジア安全保障共同体創造への取組こそ「太陽」政策であり、その方法論の手引きを示すことが広島平和研究所の使命であると私は考える。
  広島から平和創造に向けて発信力を高めることを念頭に置き、広島平和研究所の中長期的な取組として、3つの研究テーマを設定し、研究会を組織している。 従来の核・軍縮研究に加え、新たに人間の安全保障研究に取組むと同時に、東アジアの軍事信頼安全保障醸成措置(CSBMs)の導入に関する研究にも取組み、さらに近い将来、東アジア安全保障共同体の構築を見据え、数年後に年鑑「アジアの核と平和年鑑」の刊行を検討している。 アジアの核・軍縮動向を観測し、同時にアジア諸国の人権、民主制を中心にガヴァナンス動向の監視を行うことで東アジア共同体の創造に向けた諸問題とその背景を明らかにするのが年鑑の刊行目的である。

 A 70周年記念事業
  最後に70周年記念事業として広島平和研究所が取組んでいる3つの事業について説明したい。 第一に、2015年度日本平和学会春季大会の誘致と開催である。 被爆70周年に合わせて平成27年(2015年)7月18日(土)〜19日(日)にかけてアステールプラザ(広島市)において、「敗戦後70年の地点で平和を再定位する―ヒロシマで考えるアジア太平洋平和秩序への道筋」と題して研究大会を開催する。
  第二に、『平和と安全保障を考える事典』の編纂である。 これまで平和に関する事典は、(財)広島平和文化センターによって編纂された『平和事典』(昭和60年(1985年))を最後に、類書は刊行されていない。 この間、冷戦が終結し、国際関係、国際政治の構造に大きな変容があるにも関わらず、また平和に関する概念が多様化しているにもかかわらず、我が国では平和に関する事典が編纂されていない。 広島平和研究所はすでに『平和と安全保障を考える事典』の編纂に取り掛かり、被爆70周年記念誌として本年夏を目途に本事典の刊行にこぎ着けるよう取組んでいる。
  第三に、「平和の創造とは―平和研究の過去、現在、未来」と題して3日間にわたる(9月4日から6日)夏季集中講義「ヒロシマ70平和セミナー」の開催である。 平和研究というものは、戦争を予防し、平和創造の制度を創るための手法の開拓という政策科学的な学問分野の性質からして、研究手法と提言する方法論は自ずと学際的である。 本セミナーは、国際政治学、国際法学、政治学、国際機構論、地域研究など、それぞれの分野で活躍する研究者を中心に3日にわたって行われる集中セミナーである。 対象は平和行政に携わる公務員、平和を発信する仕事に携わるマスコミ関係者、その他、平和研究の最先端に触れることを希望する社会人、大学院生である。 ともに平和を語り、平和創造の知恵を出し合い、平和創造を一緒に構想したい。 本セミナーの企画趣旨は、平和研究の最先端に触れる機会を提供することにある。
  ヒロシマ70セミナーは、70周年記念行事に終わらせることなく、これを機に以後、毎年、広島で夏季集中セミナーを開催し、中長期的には広島を平和研究の知の最前線、平和研究のメッカへと成長させることを目指す学術的な取組である。

(平成27年3月寄稿)

【こちらのウェブサイトをご参照ください】
広島市立大学広島平和研究所>>, 広島市「被爆七十周年の取組」>>

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