被爆体験記
被爆体験証言者の使命
本財団被爆体験証言者 飯田 國彦
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プロフィール 〔いいだ くにひこ〕
1942年満州生まれ。2歳で父が戦死、3歳で母・姉らが被爆死。祖母、叔父、叔母らに育てられ、県立広島工業高等学校卒。
三菱重工入社、キャタピラー三菱へ出向して支店長を歴任、定年後第一レンタル株式会社常務。
勤務の傍ら心理学を学習、交流分析協会理事長、心理相談員会相談役、大学教授・講師を歴任。
学長表彰:米 アームストロング大学、サンフランシスコ州立大学、調停委員勤続表彰:富山地方家庭裁判所長。
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原爆被害は、終戦までは軍によって、終戦後はGHQによって悲惨な現実が秘匿されてきました。
最近では、核兵器廃絶に繋げる必要性から、実相を伝えようとする動きが強まっております。
しかしながら、未だに本当の悲惨さはあまり伝わっておりません。
原爆の悲惨さに対する認識が異なれば、核に対する対応、条約に対する取り組み姿勢が異なります。
また広島の復興を見て原爆を過小評価する人もいます。
原爆は、人類はもとより地球上のあらゆる生命を断ち切り、環境を破壊し、地球を死の星にする悪魔の兵器です。
原爆が生き地獄と表現されますが、それは誤解です。
そもそも地獄とは仏教で言う六道輪廻の最下にあって、悔い改めればよじ登れる範囲の悲惨さを対象としており、原爆のように瞬時に体が破壊され、焼け焦げ、白骨化するような場面を想定していせん。
曼荼羅にも地獄図絵にも原爆のような悲惨さは書かれておりません。
原爆の実相
爆心地およびその近く(0~5、600m)では、約400m/s の爆風、3、4000度の熱線によって、数万の人が、頭が割れたり、目玉が飛び出したり、首・手・足がバラバラになったり、腸が飛び出した状態で、黒焦げとなり、瓦礫の上や中に混在して残されました。
(「図録 広島平和記念資料館 ヒロシマを世界に」(p67)、「写真集 ヒロシマ」(p33)、「広島原爆戦災誌」第一巻(p104-11,632)、第二巻(p84-87)、「広島原爆被害の概要」(p18-34)、「ヒロシマの証言―平和を考える」(日本評論社)(p50-57)、NHK・中国新聞社 記録集等参照)
少し離れたところ(5、600m~1.2km)では、服は燃え皮膚は剥がれて、人々は幽霊の行列のように、水を求めて、川辺も川面も隙間なく埋め尽くすように亡くなりました。
放射線による奇形を持つ胎児が流産し、先天的に小頭症等の病気を持つ子どもが多く生まれています。
その後、白血病やガンなどの原爆症で多くの人が亡くなり、「原爆ぶらぶら病」等の後障害を患ったり、今なお、放射線被害で苦しみ、「第二の白血病」とも呼ばれる骨髄異形成症候群(MDS)などで亡くなっています。
このような悲惨な実相の伝わり方が不十分だと、核廃絶に対する意見が分かれます。
改装中の平和記念資料館本館の新展示に期待するところ大です。
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本通りから見た爆心地方面(1945年8月7日) (岸田貢宜氏撮影/岸田哲平氏提供)
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私の被爆体験
爆心地から900mの水主町の母の実家で被爆しました。
母は姉(4歳)の手を引き、私(3歳)は叔母(県立広島第一高等女学校1年生 山本弘子)に抱っこされて、住吉橋東口まで逃げました。
そこで目にした光景は、爆心地側は、おびただしい数の遺体が、断裂状態、黒焦げで、累々と横たわり、住吉橋周辺は、服が燃え皮膚が剥がれた数えきれない程多くの人たちが、次々と川辺や川面で亡くなりました。
その光景を目にした、京都大学で物理学を学んでいた叔父(母の弟・新中康弘博士)は、「これは原子(の)爆弾だ」と誰よりも早く唱えたと伝えられています。
その後、私たち親子は新庄村の親戚のもとへたどり着きました。
そこで母と姉は、足から壊死して亡くなりました。
わたしは奇跡的に命を取り留めましたが、心身の具合が悪く、苦難の人生の始まりとなりました。
平和への道
国際情勢が悪化する中、世界には15,700発の核兵器があります。
しかも、その殆どが広島原爆の数十倍以上の威力を持っています。
しかも、小型高性能で、同時に数発遠方へ飛ばせるように進化していますが、対する迎撃力は不確かです。
核兵器は既に、1発で1千万人以上の被爆者をもたらす魔の兵器になっています。
核は核の抑止力にはなりません。
オバマ大統領のように、地球そのものを破壊してしまう核兵器の悲惨さを認識すれば、二度と核兵器を使おうという気にはならないでしょう。
「はだしのゲン」の著者・中沢啓治は次のように述べています。
「原爆の本当の悲惨さは、悲惨過ぎて、漫画や小説では伝えようがない。」
原爆の本当の非人道的な悲惨さを伝えていくことこそ、唯一世界平和への道であると考え、日本を始め、諸外国への証言活動を、残された僅かな命ですが、続けていく所存です。
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飯田さんの被爆体験講話の様子
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平和記念資料館「新着資料展」展示
手前は「婚礼衣装」(山本弘子氏寄贈)
飯田國彦さんのお母様、飯田稔子さんの遺品。
被爆前日の 8月5日に他の荷物と一緒に疎開していて無事だった。
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