和文機関紙「平和文化」No.216, 令和6年6月号

被爆体験記

核兵器禁止条約の早期批准に願いを

いとう まさお

伊藤 正雄

本財団 ヒロシマ ピース ボランティア、被爆体験証言者
伊藤正雄さん
いとう まさお

伊藤 正雄

本財団 ヒロシマ ピース ボランティア、被爆体験証言者

証言活動を始めたきっかけ

 私は今年83歳になった老人ですが、被爆当時は5歳にもなっていない子供でした。
 65歳で一度目の定年退職を迎えた時、知り合いの教会の牧師が、「伊藤さん、これから毎日何するん? こんなのはどうかね?」とヒロシマ ピース ボランテイアの募集記事を見せてくれました。 その足で平和記念資料館を訪れ申込みをしました。 当時の担当者から、「伊藤さんは被爆者なので、証言活動もしませんか?」と誘われましたが、「被爆者と言っても当時4歳で、知らないことも多いので。」とお断りをし、ピース ボランテイアの研修を受けて活動を始めました。
 2012年に広島市が被爆体験伝承者の養成を始めた時、これなら私にもできるかもしれないとの思いで、1期生として3年間の研修を受け、2015年4月に伝承者の委嘱を受けました。 そして、委嘱状を受取ったその足で横浜に向かい、ピースボートの「ヒバクシャ地球一周証言の航海」に伝承者として参加しました。
 原爆投下から70年のこの年の航海では、平和首長会議との合同プロジェクトとして加盟都市に寄港し、証言活動を行いました。 この時私は、伝承者としての話に加えて、自分自身の体験談への反響を強く感じました。 また、ICANの活動を知ったことで、核兵器廃絶の願いはヒロシマ・ナガサキだけではなく、世界人類の願いだと確信しました。 これがその後の平和活動の原点になったように思います。

私の被爆体験

 私は、爆心地から3.2kmの自宅前で被爆しました。 道路で三輪車に乗って遊んでいる時でした。 青白い閃光(せんこう)が東から西にピッカーと走りました。 その途端、何メートルか吹き飛ばされ、一瞬気を失いましたが、気を取り戻すと泣き泣き家に駆け込みました。 玄関口で母親が待ち構えており、私が下駄を脱いで上にあがろうとした時、「脱がんで良いよ、早くこちらへ。」と手を引いてくれました。 玄関や窓という窓のガラス片が家中に散乱していたからでしょう。
 家の一番奥の部屋の畳を一枚めくると防空壕(ぼうくうごう)の入口があり、私たちはそこへ逃げ込みました。 幼かった私には何が何だかさっぱり分かりませんでした。
 我が家は焼けることも倒れることもありませんでした。 また、「黒い雨」が最も多く降った地域の一つでしたが、私たちは防空壕に避難していたため直接濡(ぬ)れる事はありませんでした。
 しかし、私には12歳の兄と10歳の姉がおり、兄は袋町(ふくろまち)小学校に、姉は空鞘町(そらざやちょう)(現在の中区本川町(ほんかわちょう)辺り)にある材木店の母の実家に居ました。 両親は小さな町工場を経営しており、小型トラックを所有していたため、父は直ちに救助活動に駆り出された様ですが、街中は火の海で思う様には活動できなかったようです。 父は夜遅くに傷だらけの兄を連れて帰り、両親は懸命の看護を続けました。 姉は爆心地から1km以内に居たため、叔父、叔母、従兄弟たちと一緒に、一瞬のうちに犠牲になったようです。 現在も遺骨すら判明していません。
 当時幼かった私が家族のことより鮮明に思い出す嫌な思い出は、市内から避難してこられた多くの人たちのことです。 我が家は広かったので幾人かの人たちを休ませてあげていましたが、その人たちは次々と亡くなっていきました。 8月の暑い時ですから、遺体は一晩で腐敗が進み、悪臭が漂うようになりました。 そのような遺体が近くの空地に集められ、火葬が始まりました。 10人ぐらいを積み重ねては石油を掛けて焼却していました。 そんな光景が一週間も続いたでしょうか。 その光景だけは私の脳裏に焼き付き、未だに離れることはありません。
 父が連れて帰った兄は、両親の懸命の看護にもかかわらず、3週間後の8月29日に息を引き取りました。 兄は、多くの遺体処理が行われたあの空地で、近所の人たちの助けを借りて荼毘(だび)に付されました。

被爆後の苦難

 生き残った私たちにとって、本当の苦難はその後にありました。 被爆後5年経ち、私が10歳の頃、父親が原爆症の後障害である「原爆ぶらぶら病」になりました。 入退院を繰り返し、一年のうち半年は原爆病院で、半年は自宅で療養という状態でした。 家業は母が継ぎましたが上手くいかず、とうとう夜逃げ同然の引っ越しをせざるを得なくなりました。 私は、入学したばかりの高校を退学し、住込みでの労働を強いられました。 15、6歳の少年にとってそれは過酷なもので、半年後には結核を患い、療養所に送られました。
 その後も波乱万丈の人生ではありましたが、現在は原爆養護ホームで安らかな生活を送らせて頂いております。 恵まれた現在へのお礼の心を込めて、平和記念資料館でピース ボランテイアとして、そして被爆体験証言者として、核兵器のない世界に向け、核兵器禁止条約の早期批准を願いながら、活動を続けています。
鶴の折り方を教える伊藤さん
ガイド活動の一環として、希望する方に折り鶴の折り方を教えています。
 
〔いとう まさお〕
昭和16年(1941年)1月3日生まれ。 4歳の時、爆心地から3.2kmの自宅前で被爆した。
2010年からヒロシマ ピース ボランティアとして活動。 2015年から被爆体験伝承者として活動し、「ヒバクシャ地球一周 証言の航海」に参加。 2022年からは被爆体験証言者としても活動している。
 
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