和文機関紙「平和文化」No.219, 令和7年3月号

被爆体験記

「地獄の様だった原爆を体験した私と家族の話」

いしばし きくこ

石橋 紀久子

本財団被爆体験証言者
石橋紀久子
いしばし きくこ

石橋 紀久子

本財団被爆体験証言者

 自分の被爆体験を話さなければ、と気づいたのは81歳の時です。 平和記念資料館の売店にいた時、ある会話が聞こえてきました。 被爆体験伝承者になるために、関東から土日に、時間とお金をかけて、広島に来られているという内容の会話です。 その瞬間、強い衝撃を受けました。 自分は被爆を受けた身で、広島に住みながら、何をしていたのかと。

原子爆弾が落ちた日

 私の家族は両親と祖母、5年生の姉、5歳の私、2歳の妹の宣子(のりこ)の6人でした。 爆心地から2.2kmの舟入(ふないり)に住んでいましたが、姉は縁故疎開で山口県の親戚にお世話になっていました。
 あの朝、父は爆心地から1.6kmの千田町(せんだ まち)の貯金局に、祖母は家の近くの工場に仕事に出かけていました。 私は母のお使いで隣家へ行き、家に戻って来たその時でした。 ピカ‼ 雷が100個も一度に光ったような物凄い光、それからドカーン‼ 今まで聞いた事もない大きな、物凄い音。 真っ暗闇になり、音のしないとても恐ろしい時間が続きました。
 やがて上の方からだんだん明るくなり、穴が開いた屋根から灰色の雲が見えました。 畳がめくれ上がり、床板が飛んで、大きなタンスがひっくり返り、窓やガラス戸は吹っ飛んでいます。
 「きくちゃん!」お母さんが大きな声で何度も私を呼んでいました。 私の頭からは血が流れ、衣服は真っ赤に染まり、血は右足にまで流れていました。 お母さんが手拭いで私の頭をきつく縛ってくれました。 私は痛いとも言わず、泣きもせず、黙ってただ立っていました。 お母さんと妹は怪我はないようでした。
 お母さんは妹に防空頭巾(ぼうくうずきん)を被せながら「ここから絶対に動きんさんな。」と言って私をおんぶしてバス通りの土手まで走りました。 バス停から市中心部の町の方を見ると、あちこちから火の手が上がり、物凄い勢いで燃え上がっていました。 お母さんは町には行かず江波(えば)のお医者さんに診てもらうことにして、家に戻りました。
 消毒液が染みた脱脂綿で私の傷を拭くと、頭と右脇にガラスが刺さっていました。 手では滑って抜けないガラスを、お母さんは前歯で噛(か)んで抜いてくれました。 傷口から血が噴き出し、目に入った血をお母さんは口で吸ってくれて、傷に脱脂綿を当てて布できつく縛り、そうしてまた私をおんぶして江波に向かいました。 しかし途中で空襲(くうしゅう)警報が鳴り、家で待つ妹の所に走って戻りました。
 家の前の道を、市中心部の方から江波の方へ逃れて行く人達の姿が絶える事なく続きました。 両手を身体から離してお化けの様に歩いて行きます。 焼け爛(ただ)れた皮膚が垂れ下がった人、血だらけの人、髪の毛は逆立ち顔は真っ黒に汚れた人、全身火傷で男女の見分けもつかない人、通り過ぎる人達は皆無言でした。
 おばあちゃんが右腕に大火傷を負って帰って来ました。 「ここは危ない!」と言うので、私達は家の前の小さい防空(ぼうくうごう)に入りました。 私はおばあちゃんの膝に頭を載せて目を瞑(つむ)りました。 おばあちゃんが「神様、仏様、ご先祖様、どうかきくちゃんの怪我を治して下さい。治れ、治れ、すぐ治れ。」と言いながら、私の頭を優しく撫(な)でてくれました。

お父さんを捜し、待ち続けて

 7日の朝になってもお父さんは帰って来ず、お母さんが貯金局まで捜しに行く事になりました。 おばあちゃんと私と妹は電車通りのテントに収容されている怪我人の世話の奉仕に行く事になりました。 黄土色のテントがずらりと張られて、その下にムシロが敷かれ、怪我をした人や火傷をして動けない人がいっぱい横たわっていました。 その人達にハエが止まらないように団扇(うちわ)で仰いで風を送る奉仕の仕事でした。
妹の様子(石橋紀久子作)
妹の様子
(作 石橋紀久子)
 奉仕を終えて家で待っていると、夕方、お母さんが疲れた顔で帰って来ました。 お父さんは見つかりませんでした。 一休みした後、お母さんは私と妹を連れて本川(ほんかわ)に汚れを落としに行きました。 爆心地に近い川上から、死んだ人が次々流れて来ました。 犬も魚も江波の方へ、瀬戸内海に向かって流れていきました。 妹を洗う時、背中に二か所、丸いドーナツの様な出来物ができていました。 「のりちゃん、痛いでしょう!」お母さんの言葉に妹はこくんと頷うなずきました。 でも泣きませんでした。
妹の様子(石橋紀久子作)
妹の様子
(作 石橋紀久子)
 8日の朝、目が覚めるとお母さんは出かけた後でした。 私達はまた奉仕に行きました。 昨日は水、水、と言っていたお兄ちゃんは目を瞑って動きません。 おばあちゃんがエプロンを外し、動かなくなったお兄ちゃんの身体に被せました。 おばあちゃんの目から涙がポロポロ落ちました。 他の男の人が水、水、と言い、おばあちゃんはスプーンで口の中へお茶を流し入れました。 「母さん、ありがとう。」弱っていたその人には、おばあちゃんが自分のお母さんに見えたのでしょう。 その人はもう目も口もあけませんでした。 動かなくなった人を兵隊さんが次々トラックに載せてどこかへ行きました。
 帰る途中、朝から元気がなかった妹が下痢になりました。 熱もあります。 この下痢は、おそらくは放射線の影響によるものだったのでしょう。 家に帰るとおばあちゃんは妹を布団に寝かせ、看病しながら、私の時と同じように神様、仏様にお願いをしました。 「治れ、治れ、すぐ治れ。」 私も妹の熱い身体をさすりました。
 夕方、お母さんが家に帰って来て、おばあちゃんに町の様子を話していました。 お父さんはどこにもいなかった事、町中に死んだ人が転がり、身体が膨れ上がり見分けがつかなかった事、炭の塊かたまりの様な死体ばかりで地獄絵だった事。 おばあちゃんが「安一(やすいち)(父の名)はもうこの世におらんのかいの。この子達を残して死ぬとは。」と言うと、お母さんは涙をこぼして泣きました。 おばあちゃんも涙を流していました。 私は急に大声が出て泣きじゃくりました。 妹もびっくりして泣き出しました。 今までこらえていた声を出して、みんなで泣きました。
 9日、私と妹は江田島(えたじま)の病院に行き、治療して貰(もら)えました。 島に着くまで、時々ごつんと私達の乗った船に死んだ人が当たる音がしました。
 そしてその日の夕方、お父さんが帰って来ました。 原爆が落ちた日、頭とお腹に大怪我をして出血しながら、建物の下敷きになった人達を必死に助け続けて、力尽きて意識を失ったそうです。 そのまま宇品(うじな)の収容所に運ばれ、3日後にやっと目が覚めました。 千田町までトラックに乗せてもらい、その後は8時間以上も歩き、親切なおじいさんに助けられながら、ようやく帰り着いたのでした。 私達は涙を流して喜びました。 家族が生きて皆会えたのは奇跡の様でした。

それから

 お母さんを除く私達4人は、姉が疎開している山口の親戚の所へ行く事になりました。 怪我や火傷が治るという温泉が近くにあり、毎日入って、湧き出る温泉水を飲んで、私達の下痢や火傷や怪我はだんだん良くなっていきました。
 お母さんは近所の世話役をしており、一人で広島で留守番をしました。 被爆後2年目から病気が続き、入退院を繰り返しました。 放射線の影響かもしれないという不安が頭から離れる事はなかったと思います。 お母さんの首や両腕には時々赤い豆の様な斑点(はんてん)が出ました。 原爆の病から逃れられない様な不安な斑点が現れてもお母さんは「子供達を育てあげるまでは絶対死ねない!」と言っていました。 子供達が結婚し、これからは残りの人生という頃、お父さんが心臓病で度々救急車で運ばれました。 お母さんは心配で体重が38kgまで落ちました。 家族の説得で心臓手術を受けたお父さんは元気になりました。 けれど、お母さんは身体の痛みが続き、被爆50年後の1995年、81歳の時、転移性骨悪性腫瘍(しゅよう)で亡くなりました。 どれ程の年月が過ぎても被爆による悪性腫瘍の発生率は高いと言われています。 その2年後、お父さんも多臓器不全で89歳の人生を終えました。 病気になるたび、両親はどれ程の不安に襲われたでしょう。 けれどあの原爆が落ちた後、気力で生き抜いた様に、両親は病気とも闘いました。 その中でお母さんは、「戦争はいけん、絶対いけん。」と言っていました。 お父さんも同じ思いだったでしょうが、原爆の体験が余りにも酷くて思い出すのも苦しかったのか、自分から原爆の事、戦争の事を語りませんでした。

次の世代を担う子供達に

 核兵器は無用の長物です。 殺人兵器を製造するお金があるなら、その分、生活に困っている人達への支援に回してほしいと思います。 私の講話を聴いてくれた子供たちからの感想文を読むたび、次の世代を担うこの子供たちに、争いのない世界をつくって欲しいと、心から期待しています。
 
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