核兵器の非人道性 ― 医学的エビデンスから
公益財団法人広島原爆被爆者援護事業団 理事長 鎌田 七男
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プロフィール 〔かまだ ななお〕
公益財団法人 広島原爆被爆者援護事業団 理事長。
1937年生まれ。
医学博士。
広島大学名誉教授。
日本放射線影響学会名誉会員、広島県がん対策推進協議会委員、核戦争防止国際医師会議日本支部理事。
中国文化賞、永井隆平和賞、日本対がん協会賞。
2001年4月より現職。
著書:「広島のおばあちゃん」など。
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はじめに
「核兵器の人道的影響に関する会議」は第1回が2013年3月にノルウェーにおいて、また、第2回が本年2月にメキシコにおいて開催された。
3年前にジュネーブの国際赤十字連盟から核兵器の非人道性の問題が投げかけられ議論され始めた。
広島、長崎の人達は「何を今さら」という感覚があろうが、これは世界の人達からみれば、広島や長崎の名前は知っているけれども広島 ・長崎で何が起こったか、特に、核兵器の非人道性について、まだ充分に知られていないということの証左であると考えられる。
本稿では、核兵器使用が非人道性であるという証拠を医学的エビデンスから記述し、次いで、一人ひとりの原爆被爆者の生涯から見えてくる非人道性について述べる。
1.原爆エネルギー源ごとに異なる病気の種類
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原子爆弾のエネルギー源とヒトへの影響を図@に示す。
原爆エネルギーの50%は爆風であり、当時、打撲や裂傷などの直接的な被害を与えた。
エネルギーの35%は熱線で、後影響としてケロイド症状が出た。
残りの15%は放射線で、これがヒトの遺伝子に傷をつけ、後障害としてがん、小頭症、成長遅滞、白内障、血管障害などを生じせしめた。
1945年3月10日に東京大空襲があり、広島と同様に約10万人余の死亡者を出したが、広島爆弾では放射能が含まれていたため、10年、50年、60年後でも身体的 ・精神的苦痛となり被爆者を悩ませており、これが非人道性の根源といえる。
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2.被爆時年齢によって異なる身体的影響とその苦痛
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身体的苦痛は、その人が人生のどの時期で被爆したかでその後の人生の様相が異なる(図A)。
胎内被爆の場合、知能障害を伴う小頭症として現れる。
小頭症で知能障害が出ている人が広島では48人、長崎で17人、合計で65人居た。
現在、生存中の方は広島市に10人おられて、皆さんの両親は全て亡くなってしまった。
症状の無い、いわゆる胎内被爆者は全国に約7,000人、広島に2,600人が居る。
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幼少期被爆の場合、相当量の放射線に被爆した人は身長や体重が被爆後の一時期、成長が止まり、低身長、低体重となっている。
また、被爆後の早い時期から白血病の多発がみられた。
さらに、加齢とともに、がんの発症(重複がんも含め)が多くなっていくものと思われる。
成人期被爆の場合、がんや血管障害が多発した。
図Bは白血病に続いて各種のがんが多発してきた時期を示す。
点線は統計的に有意性があるかもしれない(示唆的)ことを示し、実線は有意性の認められた時期を示している。
甲状腺がん、乳がん、肺がん、胃がん、結腸がんなどに続いて皮膚がん、髄膜腫(脳腫瘍の一種)が増えた。
1995年頃より2つ目のがんを発症する被爆者が増え始めた。
図Cに示すように大線量被爆者では被爆後59年目に大腸がんになり、その翌年に肺がんに罹患するという経緯を持つ被爆者も多く見られている。
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被爆時年齢と係わりなく、被曝の刻印と見做されるものに染色体異常とケロイドがある。
被爆者のリンパ球を2日間培養し、最低100個の分裂像を解析し染色体異常率を算出する。
この染色体異常率から当時の被曝線量を推定することができる。
染色体異常は爆心地からの距離が短いほど多くみられる。
図Dは日本銀行で被爆した人にみられた染色体異常で3000mSv被爆と推定された例である。
染色体異常は長期間持続しているため30年、50年経ってもその異常を把握することができる。
リンパ球(T細胞、B細胞)、骨髄細胞、ケロイド部の皮膚細胞で染色体異常が証明可能であった。
重要なことは各組織の幹細胞に放射線の傷がついており、これが分裂後の娘細胞にも受け継がれていくことである。
ケロイドが後障害として困難なことは、腕関節や足関節の拘縮をきたし、本来の運動機能が不能になることと、顔や腕などの露出部に位置している場合、精神的に大きな負荷をかけたことである。
当時の外科医は機能回復や成形に懸命に努力された。
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3.精神的苦痛
被爆者への精神的苦痛として以下の4点を挙げることができる。
1、後悔と罪の意識 ― 助けを求める生徒や肉親を置き去りにして自分だけが生き残ったという罪の意識。
あのとき助けられなかったという後悔。
当然、被爆当時は人を助けられる状態ではなかった。
これがお詫びと償いの気持ちに変わってきた。
2、限りない不安 ― 原爆症で亡くなっていく人を見て、いずれは自分にも同じ結末が来るのでは、という不安。
3、あの場面からの逃避 ― 地獄絵を見た人が、二度と同じような状況に遭遇したくないという気持ちから心に壁をつくってしまう。
この壁を守ろうとして、雷などの強い光、大きな音に対して拒絶反応を起こす。
4、死者への尊敬と畏敬の念 ― 被爆者は犠牲者に対して自分の身代わりで亡くなったと受け止め、尊敬と畏敬の念を持っている。
手厚く弔うのがせめてもの罪滅ぼしだという気持が強い。
広島市とNHKは記憶に残るシーンを被爆者から募った。
1回目は被爆30年後で、2,225枚の絵が集まった。
2回目は57年後で、1,338枚の絵が集まった(図E)。
たとえば左側の絵は、火が迫ってきた時にたくさんの人が防火用水に入り込んだところで、その外側で亡くなった人もいる。
それが頭に焼き付いていると考えられる。
右側の絵はボートで兵隊さんが亡くなった人を引き上げようとしているシーンである。
水面上の全ての遺体は腐敗ガスのため臍部を上に向けている。
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図Fは2012年11月、県内のある地区で約900名へのアンケートの結果を示す。
被爆者の77%は自分の被爆体験を少なくとも1回は子供に話をしていた。
一方で、「一度も話をしていない」被爆者は23%にのぼり、「隠し続けている」、「あまり言いたくない」、「思い出したくない」などがその主な理由であった。
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4.社会的な苦痛
被爆者の多くは財産を完全に失くし貧困への道をたどった。
突然の家族の喪失。
原爆孤児そして原爆孤老へ。
体が弱いため就職が困難であった。
一時期、企業が被爆者を雇わなくなった。
何回も休みをとられると仕事上まずいという理由だった。
そこで、ある程度働ける人を自治体が雇った。
日給が240円だったため「にこよん」と呼ばれた。
土手を築いたり、整地をしたり、公園をきれいにする作業の失業対策事業が続いた。
現在の被爆者の生活状況は、1人暮らしが4分の1、配偶者と2人暮らしと合わせると75%だった(2012年調査)。
最近では非被爆者の一般高齢者夫婦生活者の比率も高くなっているが、一人暮らしと合わせても約50%であり、被爆者の比率が高いといえる。
5.人生に投影された非人道性
これまで原爆被爆者の被害を項目別に述べて来たが、以後、被爆者の生涯からみた原爆の非人道性について述べる。
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1、H・Oさんの被爆後の生涯(図G)
H・Oさんは8歳時、爆心地から460m、小学校地下室にて被爆。
奇跡的に助かった。
被曝線量は染色体解析より1,960mSvと推定された。
9人家族のうち6人が爆死した。
親類をたらい回しされ原爆孤児として似島学園に引き取られた。
卒園後、清掃員として生活できるようになった。
やっと結婚生活を送れるようになったが、1991年に胃がんのため2回の手術を受け、胃は完全に摘出された。
食道と腸を直接つなぐため、逆流性食道炎と貧血が続いた。1998
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年、長男の事故死があり、さらに2001年には初孫(次男の長女)が白血病になった。
ところが、長女(孫)の病状について次男は親(H・O)に話さなかった。
次男は被爆歴をもつ父親の心を痛めるのではないかと考え話をしなかった。
父親は孫の病状を知りたかったが、直接次男に尋ねることはしなかった。
親子で互いにかばい合い、また、葛藤もあった。
孫は骨髄移植も行われたが死亡した。
その後、H・Oさんは2005年に間質性肺炎を患った。
大量の放射線被爆によるかどうかは不明であるが、通常の鎮咳剤、ステロイド剤では改善されず苦しんでいた。
そんな矢先、2007年に自宅で自分の命を絶った。
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2、A・Iさんの被爆後の生涯(図H)
A・Iさんは17歳時、爆心地から730mの電車内で兄と共に被爆した。
兄は1週間後に死亡した。
推定被曝線量は2,650mSvであった。
6人家族のうち2人が原爆関連死した。
1971年に原爆白内障に罹患、1997年に喉頭がんになり、1年半放射線治療を受け恢復した。
2002年右肩部分に皮膚がん出現。
その翌年、頑固な皮膚筋炎となった。
2003年に嚥下性肺炎を罹患し75歳で亡くなった。
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A・Iさんは「世界の人は『広島』と言う言葉は知っているが、広島で何が起こっているか知らない」と言い、被爆の実態を世界に知らしめないといけないと一生懸命言っておられた。
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3、K・Iさんの被爆後の生涯(図I)
K・Iさんは11歳時、爆心地から410m、小学校1階校舎内で被爆。
奇跡的に助かった。
被曝線量は染色体解析より4,830mSvと推定された。
4人家族のうち自分を除く3人が爆死した。
生活歴では、原爆孤児になり、一時住込みで働いていたが、1953年19才で結婚し妊娠したが早産と自然流産を繰り返した。
1965年離婚、1966年再婚、1997年破産を経験した。
友達の連帯保証人にご主人がなったことで返済を迫られる状況になり、市営住宅にも
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いられず車上生活になった。
キリスト教教会のお世話で生活を立て直すことが出来た。
病歴では、1973年の精密検査時、難聴や原爆白内障が分かり、1985年甲状腺がん手術、拘束型肺障害、1996年大腸がん手術、2001年髄膜腫手術、2008年多発性神経鞘腫に罹った。
神経鞘腫は帯状疱疹のようにピリピリと痛み、麻薬処方が必要となった。現在も同じ状況である。
原爆被爆が生活の面でも、体調の面でも被爆者の人生を大きく狂わせ、連綿とした苦しみを与え続けていることが明白である。
上記は多くの苦しんでいる原爆被爆者の中の3例を例示したにすぎないことを強調したい。
6.勇気づけられる被爆者の一言
著者は1962年、医学部卒業後、新設された広島大学病院「被爆内科」に入局以来52年間、原爆被爆者と共に歩んできた。
被爆者との会話の中に科学的研究のヒントや研究展開の糸口があった。
ここでは被爆者が何となく発した言葉の中に、その人の苦労の結晶、これまでの苦労を超越した心境、人としての生き方などが含まれており、その幾つかを紹介する(図J)。
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「主人の居ない人生はつらいね」と言ったのは、被爆で夫を亡くして以来、ひとり暮らしだった女性であった。
その言葉はこれまでの苦労の一部を吐露しており、いろいろと思いを馳せざるを得ず、とても重い言葉である。
「自分の思いをプラスにしたら幸せになれる」と言った方は、極貧を経験し、また、2つのがんに打ち克った方であった。
この方は昭和20年代にどのように生活したかを話してくれていなかった。
再婚していた。
6年前に娘さん2人を連れて原爆養護ホーム倉掛のぞみ園に来園された時、一目見てその理由が分かった。
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長女は日本人の顔ではなかった。
今は孫も居て、とても良い境遇になられた。
その人が「泥沼をはって歩いた八十路かな」と詠んだ手紙を先日下さった。
とても前向きに考えておられる方である。
「苦悩を超えて生きてゆきます」と言った女性は顔面全体にケロイドを持っていたが、40過ぎて結婚され、子どもさんが1人いる。
3つのがんを克服し、「生きていきます」と力強く言っておられる。
「思いやりの心が大切」と言われた方は原爆被爆と阪神淡路大震災の両方を経験された方であった。
震災時は商工会議所会頭だった。
復興のため、人のお世話をしながら懸命に働き2年後に過労で倒れた。
腎臓透析患者となった。
「プラス思考なら幸せになれる」と被爆者ははっきりと言う。
外国人は被爆者が恨みやつらみを言うはずだと、また、原爆を投下した国に対して「謝れ」と言うだろうと思っているかもしれないが、そうではない。
生きてきた苦しみを前向きに考えることが、周りの人への思いやりへと繋がっている。
我々はしっかりしないといけないと勇気づけられる思いである。
被爆者は本当にいろんなことを教えてくれている。
おわりに
本文は2014年4月12日に開催された「軍縮・不拡散イニシアチィブ(NPDI)第8回外相会合」の前日にNPOが主催して行われた講演会時の概略を文章化したものである。
69年に及ぶ核兵器不使用の記録は広島 ・長崎原爆被爆者の多大な犠牲と建設的な努力のもとでなされたものであることを忘れてはならない。
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(平成26年6月20日寄稿)
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