被爆体験記
ヒロシマが昔話にならないように
本財団被爆体験証言者 山本 玲子
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プロフィール 〔やまもと れいこ〕
1938年(昭和13年)生まれ。
1年生だった7歳の時、爆心地から4.1km離れた国民学校の校庭で、飛行機を見上げていた時に被爆。
戦後は損害保険会社勤務を経て、子育てに専念。
1980年から児童館に非常勤職員として勤務。
2005年よりヒロシマ ピース ボランティアとして活動。
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校庭で被爆
昭和20年、私の通学していた国民学校は広島市に隣接していましたが、郡部でしたので、集団疎開はありませんでした。
夏休みは8月10日頃からの予定でした。
8月6日は月曜日で、暑い朝でした。
私は学校につくと、教室にカバンをおいて校庭に遊びに出ました。
「飛行機だ‼」「B29だ‼」とのさわぎ声に空を見上げると、2機の飛行機が朝日に銀色に輝いて、上下に動いています。
「ああ、きれい‼」と思った瞬間、ピカッと光り、“太陽が落ちた”と思いました。
校庭は、まきあがる土煙で黄土色になり、夕暮れのように暗くなりました。
逃げ惑う児童は、ぶつかって倒れたりしています。
私も友達といっしょに逃げました。
だんだん明るくなってきて、周囲が見えるようになると、私は裏門から出て、近くの民家の縁側の下にうずくまっていました。
まわりには10人くらいの上級生がいました。
上級生が校庭に戻っていったので、後をついて戻りました。
校舎は2階建てのまま建っていましたが、瓦は落ちて、窓もガラスも飛び散っていました。
教室に入ろうとしましたが、廊下の天井が落ちていて入れなかったので、家に帰りました。
自宅は、2階の一部がねじれ、雨戸や障子も吹きとび、タンスや戸棚も倒れていました。
中に入れないので、妹と縁側で遊んでいると、空が暗くなり雨が降り出しました。
猫のタマがのっそりと庭に出て行きました。
収穫した米や麦をネズミが荒らすので、家ではネズミ退治に猫を飼っていたのです。
タマは白と黒のブチ模様でしたが、雨にうたれると白い毛が黒くなりました。
黒い雨なんてめずらしいので、私も外に出て両手で雨を受けました。
ねっとりとした不思議な黒い雨でした。
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「黒い雨の染みが残る体操シャツ」
松宮豊子氏寄贈/広島平和記念資料館所蔵
西高等女学校専攻科だった久保田豊子さん(当時16歳)は、学校の校舎2階で被爆した。
このシャツは被爆時に着ていたもので、避難するときに浴びた黒い雨の染みが残っている。
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おじさんのやけど
下着姿の知り合いのおじさんが、布団を1枚かついで庭に入って来て、「水、水をくれ‼」と縁側に倒れ込みました。
ひどいやけどで、もう自分では動くことも出来ません。
祖母と母が2人がかりで布団に寝かせ、水を飲ませると、黄色い水みたいなものを吐きます。
垂れさがった腕の服を母がハサミで切り取ると、それは服だけではなく、肩や首、腕のやけどの皮膚もいっしょにくっついたものでした。
やけどに油をぬりましたが、足りないので、胡瓜をすりおろして貼り付けました。
いつのまにか傷に無数のハエがたかりました。
おじさんは熱が高く、8月7日の昼過ぎに亡くなりました。
みんなの力で平和を
戦後は食料難で苦しい生活でした。
家は農家だったので、粗末なものでも食べる物はありましたが、家を焼かれ何も無くなった親類もいっしょに暮らしたので、大人数での生活は大変でした。
秋には田んぼでイナゴを取るのが日課でした。
イナゴを網でとり、一升瓶にいれ、一日おいて汚物を吐かせ、焼いたり乾煎りしたりして食べました。
お弁当が必要な日も、みんな昼には家に食べに帰っていました。
芋粥や、すいとん汁が主食だったので、お弁当にして持っていけなかったのです。
戦後10年過ぎた頃から、白血病などで亡くなる人が多くなりました。
集団疎開がなかった国民学校の一、二年生は、病気になったり、身体の調子が悪く、自殺した級友もいました。
戦争は人間が始めるものです。
人類と地球を守っていくためには、戦争をしてはいけませんし、核兵器を絶対に使用してはいけません。
核の無い、平和が続くように、みんなの力で守っていけたらと願います。
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