被爆体験記
縁故疎開、集団疎開そして被爆 ―戦争に振り回された少年時代―
本財団被爆体験証言者 瀬越 睦彦
プロフィール
〔せごし むつひこ〕

1934年生まれ。82歳。東京都出身。
広島に縁故疎開したことで、小学5年生だった11歳の時、爆心地から2km離れた自宅で、食卓についたときに被爆した。
元教師。2014年5月から広島平和記念資料館で証言活動を開始。

縁故疎開(えんこそかい)
  東京の国民学校に入学した1941年、12月8日の早朝に「真珠湾(しんじゅわん)攻撃」の臨時ニュースを聞いた父母の動揺した様子は、いまも鮮明に覚えています。 学校の様子が急変しました。 命令と号令で動かされる毎日は初等教育の場とは言えませんでした。 6年生が教室の下に横穴を掘って「防空壕(ぼうくうごう)」をつくり、4年生の私たちは小石拾いなどをさせられました。
  1944年7月、国の施策の縁故疎開で母方の祖母の住む広島市観音町(かんおんまち)へ来ました。 間もなく、日本の主要都市は米軍の空爆(くうばく)を受けて次々と焦土(しょうど)と化していきました。 しかし広島市には編隊による爆撃は一度もなく、大人たちは「不思議じゃのう」と言っていました。
  苦しかったのは食糧難による空腹でした。 「代用食」と呼ばれる脱脂大豆、のり状のふすま(小麦の外皮)、かぼちゃ、さつま芋の茎など何でも食べました。 食べ盛りの少年にとって、空腹は辛いものでした。

集団(学童)疎開
  1945年4月から、広島でも集団疎開への参加が半ば強制的に進められました。 7月初旬、午前10時に広島駅前の広場に市内の国民学校の3年から6年までの児童数百名が集まり、代表者から激励の挨拶(あいさつ)を受け、芸備線ホームへ向かいました。 保護者は愛宕(あたご)踏切で見送るよう指示されていました。 私を含め多くの児童が親との別れを惜しんで涙ぐんでいました。

8月6日、その時
  集団疎開から5日後、私は原因不明の熱病で帰宅しました。 帰宅して1週間たった8月6日の朝を、私ははっきりと覚えています。
  「ピカッ!」と、前触れもない閃光(せんこう)が目の前の母を一瞬「(ろう)人形」にしました。 次に「ゴオー!」と爆風が襲い、母は「きゃー!」と叫びながら側で眠っていた生後6か月の哲雄(てつお)(弟)の上に跳んでいきました。 床が抜け、柱は倒れ、天井や(かわら)が落ちてきました。 「ちくしょう、ちくしょう…」と叫びながら瓦礫(がれき)の中から立ち上がった私の前に、髪を振りみだし全身血だらけの母が哲雄を抱きしめて立っていました。 「兄ちゃん」窓際に座って隣の子と話をしていた五歳の昭雄(あきお)(弟)が足を引きずりながら近づいてきました。 「救急袋を持ってちょうだい。外へ出るよ」母の大声に引かれ、裏の畑の中の防空壕へ向かいました。
  母の背中は見るに()えないほどの傷です。 タオルを当て下着で固定しました。 右手の親指の付け根からの出血が止まらず、練り薬を塗りつけ包帯を巻き付けました。 私の左足の関節部分がザクロのように口を開き、激痛が襲います。 私は自分で脱脂綿を当て手拭(てぬぐ)いで巻きました。 哲雄は黒い(かたまり)に見えましたが、「スースー」と微かな呼吸の音が聞こえました。 「哲坊、生きてるよ」という私に母は無言でうなずきました。
  その時、大粒の雨が降り出しました。 空を見上げると暗雲が垂れこめ夕方の暗さです。 腕にかかった雨粒を拭うと、黒い泥水でした。 放射能を含む雨だったのですが、どんなにこわい雨なのか、その時は知りませんでした。

防空壕で
  母が「吉浦(よしうら)のおばちゃん(父の姉)のところでお世話になろう」と言い、馬糞(ばふん)の混ざったような(わら)を敷かれた貨車に押し込まれて吉浦駅に着きました。 伯母の家を訪ねると不在でした。 私たちが薄暮の中を歩いていると、山の斜面に横穴を掘った防空壕がありました。 中に入り母が背中から哲雄をおろすと、「いーん」と微かに声をあげました。 「生きていてくれた…」気丈な母がはらはらと涙を流しました。

廃墟(はいきょ)の中で
  8月中旬、「お父さんが東京から帰ってきたら心配するから」と母が言い、観音町へ帰りました。 己斐(こい)駅(現西広島駅)へ着くと、異様な臭いが鼻をつきました。 私たちが住んでいた五軒長屋は全壊していましたが、北側の家の押し入れの一部が残っていたので母と弟はそこを寝床にし、私は防空壕で過ごしました。

再開
  8月下旬、「東京も空襲がはげしかったようだから、お父さんのことが心配じゃね」と母は悲観的なことを言い始めました。 電気がないので日没後は眠るしかありませんが、午前3時頃には目が覚めてしまいます。 私が防空壕から出ると、漆黒(しっこく)(やみ)で物音ひとつしない無音の世界です。 ()き火を起こし、右手が全く使えなくなった母の代わりに洗濯を終え、冷えた手を焚き火にかざしていると、微かな音が徐々に近づいて来ました。 「睦彦か? 睦彦だな!」1年前、東京駅で「お母さんを頼んだぞ」と握手して別れた父の声です。 父は午後10時に広島駅に着いて、暗黒の焼け野原を7時間余り歩いたのです。 家族をおもう気持ちに応えて神様が導いてくれたのだと思っています。

語り継ぐこと
  父も母も原爆について話すことは一度もなく、私も思い出したくありませんでしたが、4年前に被爆体験証言者の話を聞き、残された人生を自分の体験を語り継ぐことに(ささ)げようと決心して、一昨年の5月から資料館で活動を始めました。
  一昨年の平和記念式典は43年ぶりの土砂降りの雨でした。 私には、未だに核兵器や戦争が無くならないことへの、原爆犠牲者の涙のように思えました。 一日も早く、核兵器も戦争もない平和な世界になることを祈ります。
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