“ヒロシマの心”を発信する人々
昔の子どもたちに光をあてて 今の子どもたちに伝えたい
―童心寺を次世代に語りつぐ会 代表 久保田詳三氏に聞く―
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初めに
原爆が落とされてからおよそ4か月後の昭和20年(1945年)12月、広島県農業試験場の跡地(現在の広島市佐伯区皆賀)に、僧侶の山下義信さんが私財をなげうって原爆で両親を亡くした子供たち(原爆孤児)の施設「廣島戦災児育成所」を開設しました。
この施設の中にあった建物の1つが、後に「童心寺」と呼ばれる建物となります。
原爆孤児は2,000人とも6,500ともいわれ定かではありませんが、当時、多くの孤児が悲惨な状況におかれました。
育成所に収容された子供たちは、毎朝6時30分の鐘の合図で起床し、童心寺でお経をあげ、亡き両親の供養をしてから朝食を済ませ、学校へ行くという生活を送りました。
ある日、12歳の少年が、お母さんに会いたい、どうしたら会えるのか、僕がお坊さんになったら会えるのか、とおじいちゃん(山下義信)に質問し、僧侶の道をめざすことになります。
最終的には5人の少年が手をあげ、ここに「原爆少年僧」が誕生することになります。
昭和21年11月のことです。
童心寺を次世代に語りつぐ会の発足について
平成26年4月、地元町内会で、絵が得意な木下数子さんが、紙芝居「童心寺」を完成させました。
このことが中国新聞に掲載され、紙芝居の上演依頼が殺到しました。
遠方からの要請もあり、紙芝居をDVDにして対応する必要が生じました。
と同時に、廣島戦災孤児育成所や童心寺に係りのある人から証言を残していく組織が求められるようになりました。
紙芝居が出来て10か月後の平成27年2月、皆賀沖町内会の役員会へ提案し、「童心寺を次世代に語りつぐ会」が発足しました。
これで、育成所や童心寺に関する情報の受け皿としての役割が担える団体が誕生しました。
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紙芝居「童心寺」
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紙芝居を上演する木下数子さん (平成28年6月28日、広島市立井口台小学校にて)
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紙芝居がDVDと絵本に
皆賀公民館と一緒に紙芝居のDVD化を模索しているとき、広島市立舟入高等学校演劇部が「廣島戦災児育成所 童心寺物語」という題名の演劇を上演するという話が飛び込んできました。
紙芝居に演劇を加えたDVDに、さらに被爆70周年記念行事としての平和のつどいを含める企画が一気に進み、平成27年7月25日、佐伯区民文化センターで「忘れてしもうてええんかのう 被爆70周年記念演劇、廣島戦災児育成所 童心寺物語上演」となりました。
この時の内容と紙芝居がDVD化することになりました。
また、もっと身近な紙芝居の活用方法と広がりを考えたのが、絵本です。
絵本を紙芝居としても使えるように、横長の仕様としました。
そしてもう一つは、将来、絵本の外国版を作り、平和記念公園を訪れる外国人に自国に持って帰ってもらいたい、との思いもあり、横長の絵本にしました。
関係者から話を伺いたい
かつて「亡くなった両親に会いたい」と、僧侶の道を選んだ子どもたちがいました。
このことを通し、同年代の今の子供たちに何かを伝えられたらとの思いを以前から持っていましたので、僧侶となった人の消息が大変気になっていました。
紙芝居のDVDと絵本のおかげで、最後まで僧侶をまっとうされた原爆少年僧の3人の内、2人の方の家族から連絡が入りました。
福井県と兵庫県のお寺のご子息からです。
原爆少年僧だったお父さんは、いずれも平成10年に亡くなっておられました。
「お父さんから、山下義信さんのこと、廣島戦災児育成所のこと、童心寺のこと、原爆少年僧のこと、何一つ聞かされていなかった」と手紙に書いてありました。
育成所で昭和23年4月から保母として働いていた杉原東良子さんに、この手紙のことを伝えると、
「どんなに勇気のあるお子さんでも、自分が原爆孤児であったと身近な人に伝えたくない気持ちが強いものです。それはとても悲しく、暗く、平和な世の中ではありえない境遇です。それを伏せることが、社会の中で自分を守る1つの手段だったのでしょう。私には理解できます。」
とおっしゃいました。
また、山下義信さんの息子さんや、育成所内に所在した幟町国民学校分教場に住み込みで指導された斗桝正、良江さんご夫妻の息子さんにもお会いすることが出来ました。
お二人とも両親が健在でありながら、孤児と一緒に育成所で生活された方です。
原爆孤児を救うという社会的偉業は、このような家族の犠牲なしには成し遂げられなかったのだと思います。
語りつぐことの意味
童心寺を次世代に語りつぐ会は、次の5つの秘話を語りつぐことにしています。
(1)原爆で暖かい家庭と両親を一度に失った子供たちがいたということ。
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(2)私財をなげうって、孤児たちの施設を作った山下義信という人がいたということ。
(3)父となり母となり、心を鬼にして子供たちのしつけを担当した保母さんたちがいたということ。
(4)苦しみに負けず、一生懸命生き抜いて、将来を切り開いた子供たちがいたということ。
(5)お母さんに会いたい、という一心で、若くして僧侶の道を選んだ原爆少年僧と呼ばれた子供たちがいたということ。
私の考える次世代とは、育成所で生活をした子供たちと同世代の今の子供たちを指しています。
この秘話を伝え、同じ世代の人間として、どう思うのか考えてもらいたいからです。
結果として、「お父さんお母さんを大切にしなければ、との思いが伝われば」と、それが70年まえの出来事を今の子供たちに伝えることの意味だと感じています。
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地元の小学校では童心寺の話が平和教育として取り上げられ、童心寺を語りつぐ会には、たくさんの感想文が届いています。(久保田さん・事務所にて)
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(平成28年6月13日取材)
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