被爆体験記
私の被爆体験 ―原爆を語り伝えるために―
本財団被爆体験証言者 佐渡 郁子
プロフィール
〔さど いくこ〕

1937年(昭和12年)生まれ。 国民学校2年生だった7歳のとき、爆心地から870m離れた上流川町(現在の三越百貨店付近)の祖母の家の庭で、妹と砂遊びをしていたときに被爆。

祖母の家で被爆
 私の家族は、両親と私(7歳)と妹(1歳)の4人家族で、松川町(まつかわちょう)に住んでいました。
 1945年(昭和20年)8月6日、父は国鉄に勤務しており、母は建物疎開(たてものそかい)焼夷弾(しょういだん)の攻撃による火災の類焼(るいしょう)を防止するための防火帯設置作業)の地域義勇隊(ぎゆうたい)に動員されて早朝から働いていました。
 母が出かけるため、私と妹は上流川町(かみながれかわちょう)の祖母(父の母)の家に預けられ、午前8時15分頃には真夏の太陽がぎらぎら照りつける庭で遊んでいました。 この祖母の家は、爆心地から870mの至近距離でした。
 “ピカッ” “ドーン”の瞬間に気を失い、気が付いた時には私も妹もずいぶん離れたところに吹き飛ばされていました。 私は手と額を火傷していました。 妹は、日差しがあまりに熱いのでシュミーズだけのうす着にしていたため、全身大火傷してしまい、ただれた手や足の皮膚が垂れ下がっていました。
 その爆風で一瞬にして家は吹き飛ばされ、3,000度とも5,000度ともいわれる熱線で木造家屋は燃えだし、見渡す限り爆風によるほこりや、燃え上がる煤煙(ばいえん)や、燃え盛る(ほのお)です。 不気味などす黒い焔に燃え盛る景色は、地獄絵(じごくえ)としか言いようのない不気味な景色となっていました。

東練兵場へ
 燃えさかる炎や煙の中に居場所はなく、祖母と3人で東練兵場(れんぺいじょう)に避難することになりました。 妹を背負い祖母と3人で東練兵場に行くため猿猴橋(えんこうばし)を目指して進みましたが、道には瓦礫(がれき)が散乱し、煤煙や火の粉を払いながら進まなければなりません。 道ばたには大火傷で苦しむ人。 「水をくれ!水をくれ!」と叫ぶ人。 川に入って助けを求める人。 川に入って死んでしまっている人。 ほんとうに地獄の道を自分達もさまよっているようでした。
 熱風で気道が焼けただれたのか、いたる所で水を求めて(あえ)ぐ人がおり、中には防火水槽(すいそう) に頭を突っ込んでそのまま亡くなってしまった人などが数多く見られ、無残な姿が今も(まぶた)に浮かぶことがあります。
 何時間かかったのでしょうか、やっとの思いで東練兵場にたどり着きました。妹の火傷はひどく、肩、首、胸、手、足などが赤く焼けただれ、着ていたシュミーズが血で真っ赤に染まっていました。 軍医さんに手当てをお願いしても、なかなか順番が回って来ず、イライラしたことが忘れられません。
 東練兵場には黒焦(くろこ)げになった死体がたくさん転がっており、また、怪我や火傷などの痛みに苦しんで「痛いよ、痛いよ」と泣き叫ぶ人や、家族の人が亡くなって悲しみを抑えきれず泣く声などで騒然(そうぜん)としており、まさに地獄に引き込まれているような雰囲気でした。

母と再会
 地域義勇隊の作業に行っていた母が午後、東練兵場を訪ねて来て、元気で再会することが出来ました。 母は爆心地から1km足らずの距離で作業していたにもかかわらず、幸運にも大きい建物の陰にいたそうで、他の人達が多数亡くなったのに怪我もしないで元気で再会することが出来ました。
 母は妹が大やけどをしている姿をみて、朝別れる時あんなに元気だったのにと悲しみ、寝ている妹をやさしく(さす)ってやることしかできませんでした。
 その後、母は今朝()ただしく出た家が火事になっていないか心配だと、祖母や私に妹のことを頼んで様子を見に出て行きました。 東練兵場から自宅までの距離は2kmほどですが、交通機関もなく、途中至る所で火災が発生してごった返しており、やっと3時間かけてたどり着いたそうです。 その時ちょうど、隣家が焼け、自宅も焼けかけているところで、近寄ることも出来ない状況でしたが、母は意を決し、防空頭巾(ぼうくうずきん)に水をかぶって家に入り、入口に置いていた救急袋だけを何とか取り出すことが出来ました。
 広島市全体が大火に包まれている状況で、消火体制が機能するすべもなく、見る見るうちに猛火(もうか)に包まれた自宅を、母は涙しながら見送ったとのことです。

1歳の妹との別れ
 被爆翌日、目を覚ますと妹が泣いていました。 よく見ると火傷した部分に沢山蛆虫(うじむし)がわき、その部分が痛いのか(かゆ)いのか、足をばたつかせていました。 軍医さんに()(ばし)をもらい、きれいに蛆虫を取ってあげると、妹は気持ちがよくなったのか眠りにつきました。
 被爆2日後の8日の夕方頃になると、妹の体がだんだん冷たくなり、そのまま亡くなってしまいました。 とてもきれいな顔でした。
 翌日夕方5時ごろ、兵隊さんに荷車を借りて妹の遺体と(たきぎ)を積み、近くの公園に行って私と母の2人で火葬(かそう)してあげました。 公園は臨時の火葬場になっていて、次々と運ばれて来る遺体に、兵隊さんが油をかけて焼き続けていました。 熱い時期でもあり、死体の腐敗(ふはい)も早く、(にお)いがひどいので窒息(ちっそく)し倒れそうでした。 私達は兵隊さんに教わったとおり、小さな缶に遺骨を入れて練兵場に持ちかえりました。
 家のある人は自宅に帰ってゆきますが、私達には帰る家がありませんので、それから練兵場のテントを借りて野宿をすることになりました。

原爆を語り伝えるために
 私は原子爆弾を身を以て体験した者として、核兵器の廃絶と世界平和を訴えていきます。 原爆の悲劇の記憶を日本人が忘れてしまわないよう、特に若い世代の方々への証言として残しておきたいと思います。
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