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サダコと原爆(げんばく)
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そのころの日本

中国やアメリカを相手に戦争がはげしくなっていった。

昭和のはじめごろ、ひどい不景気がつづきました。せい治への国民の不満が高まりました。一部の軍人たちは、中国東北部(満州)のほう富なしげんを日本のものにすれば、日本国内の問題がかい決できると考えていました。そこで、関東軍(満州にいた一部の日本軍)は強こうに「満州国(まんしゅうこく)」をつくり、そこを自由にし配しようとしました。こうした行いは、中国の人々のいかりを強め、日本のしんりゃくにていこうするようになりました。こうして、日本と中国の間に10数年にわたる戦争が起こりました。
また、1941(昭和16)年、日本はマレー半島に上陸し、ハワイの真珠湾(しんじゅわん)にきしゅうをかけてアメリカ・イギリスなどとも戦争をはじめました。この戦争を太平洋戦争といいます。
はじめのころは日本軍がゆうせいでしたが、だんだん、太平洋上の島々や東南アジアで日本は次々と負けるようになり、1944(昭和19)年になると日本上空にアメリカ軍の飛行機が飛んできてばくだんを落とすことも多くなりました。

●太平洋をとりまく戦争の広がり

「うちてし止(や)まん」──日本全体が戦争協力体せいに!

せい府は、1938(昭和13)年「国家総(そう)動員法」をさだめて、人やものすべてをゆう先して戦争にまわすことができるようにしました。戦争をひはんするたい度はとれなくなり、大部分の国民は、せい府の発表やとうせいをうけた新聞・ラジオのニュースを信じて、苦しい生活にたえました。学校でも「戦争に勝つこと」を目標にしたじゅ業が行われ、日本国中が「うちてし止(や)まん」(最後までたたかいぬこう)という気分におおわれていきました。

「金ぞく類回しゅう令」ポスター 兵器を作るために必要な金ぞくが足りなくなったため、国民はお寺のかねや家庭用のなべなど金ぞくでできたものをていきょうしました。
1942(昭和17)年ごろ
所ぞう:広島市公文書館

「少年飛行兵」
(週刊少国民1944年11月12日号)
ていきょう:朝日新聞社

「少年戦車兵」
(週刊少国民1945年3月11日号)
ていきょう:朝日新聞社

※朝日新聞社に無だんで転さいすることはできません。

1941(昭和16)年小学校が国民学校に。

子どもたちは「少国民」と呼ばれ、子どもの本も戦争に協力する内ようになってきました。

広島と戦争

中国・四国地方で最大のまち

今から約400年前、戦国時代の大名、毛利輝元(もうりてるもと)が城をつくって「広島」と名づけてから、広島は中国地方の交通やけいざいの中心として発てんしてきました。その後、海をうめ立てながら町は広がっていき、1889(明治22)年には、全国にたん生したはじめての市のひとつとして「広島市」となりました。

ていきょう:広島市公文書館

被爆(ひばく)前の広島城の天守かく 城下町・広島は広島城を中心に発てんしてきました。明治い新で城の一部はこわされましたが、残った天守かくが1931(昭和6)年に国ほうに指定されるなど、れきし的にも大切な建物とされていました。しかし、原爆(げんばく)によってすべてこわれたりもえたりしてしまいました。げんざいの天守かくは1958(昭和33)年にふく元されたものです。

軍都ひろしま

広島には、たくさんの学校が作られ学都(学問の都)とよばれる一方で、軍都ともよばれていました。1871(明治4)年、全国でもっとも早く軍隊がおかれた町のひとつが広島だったのです。特に日清戦争(にっしんせんそう)(1894-1895)、日露戦争(にちろせんそう)(1904-1905)の時には、広島市の宇品港(うじなこう)から戦場に向け、兵士が出兵したり物しが運ばれたため、全国から人や物が広島に集まってにぎわうようになりました。軍のしせつも多くつくられ、サダコさんが生まれた1943(昭和18)年には、当時の広島市の面積の約10%を軍関係のしせつがしめるほどになっていました。

日清戦争(にっしんせんそう)で広島入りした明治天皇 日清戦争(にっしんせんそう)中は広島で国会が開かれ、りん時の首都のようになりました。
にしきえ「広島国会仮議事堂(かりぎじどう)の図」
1894(明治27)年
所ぞう:広島市中央図書館

陸軍りょうまつ支しょう(軍の食料などを作っているところ)でかんづめを作っている。陸軍のかんづめ工場は日本中で広島にしかありませんでした。
所ぞう:内山滋
ていきょう:広島市郷土(きょうど)資料館

戦争中の人々の暮らし

「ほしがりません勝つまでは」

戦争が長くなるにつれ、人々の生活はだんだん苦しくなっていきました。食料や衣服、ねん料など生活に欠かせない物も自由に手に入れることができなくなり、みんな、せい府から配られるキップを持って配給を受けるようになりました。
それでも、人々は「ほしがりません勝つまでは」とか「ぜいたくはてきだ」といったスローガンで自分たちをはげましながら不自由な生活にたえていました。

校庭の畑作り作業 食料不足をおぎなうため、学校の校庭までが畑として使われるようになりました。
幟町(のぼりまち)国民学校 1945(昭和20)年
所ぞう:山之上弘子
ていきょう:広島市公文書館

原子爆弾(げんしばくだん)の開発

ヒトラーと原子爆弾(げんしばくだん)

日本が太平洋戦争を戦っていた同じころ、ヨーロッパでは第二次世界大戦のさなかでした。ナチス・ドイツのヒトラーが周辺の国々を次々にしんりゃくし、イギリス、フランスを中心にした連合軍と戦争をしていたのです。ヒトラーは、ウランのかく分れつによって非常に大きなエネルギーが発生することに関心を持ち、原子ばくだんをつくる研究を進めるじゅんびをしていました。
ユダヤけいハンガリー人の物理学者シラードは、ユダヤ人をはく害するヒトラーが原爆(げんばく)を持つことをおそれ、アメリカ大とうりょうに、原爆(げんばく)の研究をすすめる手紙を送りました。この手紙には、ノーベルしょう受しょう者で世界的によく知られている科学者アインシュタインのしょ名もそえられました。

●かく分れつのしくみを知ろう

「マンハッタン計画」

アメリカ大とうりょうは原子ばくだんを開発するきょかをあたえ、1942(昭和17)年、後に「マンハッタン計画」とよばれる原子ばくだん開発計画が始まりました。この計画は、ニューメキシコ州ロスアラモス研究所などでひそかに進められ、約20億ドルというものすごいひ用と、のべ12万人以上がこのためにつかわれました。

7月、原爆(げんばく)実験が成功した。

アメリカは、ドイツの原子爆弾(げんしばくだん)開発が進んでいないことを知ってからも、そのまま開発を進めました。1945(昭和20)年7月16日、世界ではじめての原爆(げんばく)実験を、ニューメキシコ州アラモゴードのさばくで成功させました。

世界ではじめての原爆(げんばく)実験

実験前、ここには高さ30mの鉄とうが建っていましたが、原爆(げんばく)によってほとんどがはかいされてしまい、きその一部が残っただけでした。原爆(げんばく)のい力のすさまじさは、科学者たちの想ぞうを大きくこえました。


1945(昭和20)年9月
ていきょう:ロスアラモス国立研究所

「原爆(げんばく)投下」の命令が出された。

ヨーロッパでは、1945(昭和20)年5月にヒトラーが自さつしてドイツは無じょうけんこうふくしました。ヒトラーをおさえるために原爆(げんばく)をつくろうと考えていた科学者たちは、「無けいこくによる原爆(げんばく)投下の禁止」「さばくや不毛の島でしい実験をし、日本にこうふくを求める」「それでも日本がこうふくしない場合に原爆(げんばく)を使用」というせい願書をアメリカせい府に出しましたが、アメリカせい府は、これを受け入れませんでした。そして、7月25日、アメリカは原爆(げんばく)投下の命令を出したのでした。

「原爆(げんばく)をけいこく無しに使わないよう」にとうったえた科学者たちのせい願
原爆(げんばく)の投下命令書

上の写真をクリックしてください。それぞれの全文を読むことができます。

1945(昭和20)年7月 アメリカ国立公文書館蔵

科学者たちの願いを受け入れず、アメリカは「原爆(げんばく)投下」の命令を出しました。

かく分れつのしくみを知ろう

原子 物しつをこう成する単位。

かく分れつ

  1. 原子の中心にある原子核(げんしかく)に中性子(ちゅうせいし)がぶつかり、原子核(げんしかく)がはげしくしん動してくびれができ、分れつする。
  2. 分れつしたとき、中性子(ちゅうせいし)が飛び出し、同時にエネルギーを放出する。
  3. 飛び出した中性子(ちゅうせいし)が別の原子核(げんしかく)にぶつかる。
  4. 1.2.3.をくり返す。

かく分れつを、一しゅんのうちにくり返すことで、ものすごいエネルギーを生み出します。このエネルギーを兵器として利用したのが、原子ばくだんです。

かく分れつ連さの説明

かく分れつを連続しておこさせるためには、ある一定量以上のウランなどのかくねん料が必要です。この一定量のことを「臨界(りんかい)量」といいます。
ウランには238と235という同位体があり、自然界には、99.3%と0.7%のわり合でそんざいする。ウランをばくだんの原料にするためには、中せい子が原子かくに飛びこむことにより、かく分れつを起こすウラン235のひりつを人工的に高める必要がある。

「原爆(げんばく)を使わないよう」にと訴(うった)えた科学者たちの請願(せいがん)

米国大統領(べいこくだいとうりょう)あての要請書(ようせいしょ)
1945年7月17日
米国国民の知らない発見(はっけん)が、近い将来(しょうらい)においてわが国民の幸福を損(そこ)なうかもしれません。原子力の解放(かいほう)はすでに実現(じつげん)し、原子爆弾(ばくだん)は、陸軍の掌中(しょうちゅう)にゆだねられています。対日戦の現段階(げんだんかい)においてこの爆弾(ばくだん)の使用を承認(しょうにん)すべきか否(いな)かという、運命を左右する決定が、最高司令官たる閣下(かっか)の掌中(しょうちゅう)に託(たく)されているのであります。
われわれ下記に署名(しょめい)した科学者は、原子力の分野にかかわる研究にたずさわってきました。われわれは、米国が今の戦争中に原子爆弾(ばくだん)による攻撃(こうげき)をこうむるかもしれず、また、米国がとりうる防御(ぼうぎょ)策は、同じ手段(しゅだん)による反撃(はんげき)以外にはなかろうとの不安を、最近はじめて抱(いだ)くにいたりました。ドイツの敗北にともない、この危険(きけん)が回避(かいひ)された今日、われわれは、あえて次のように述(の)べずにはいられません。

すみやかに勝利をおさめ、戦争を終わらせなければなりません。それには、おそらく原子爆弾(ばくだん)による攻撃(こうげき)が有効(ゆうこう)な戦争遂行手段(すいこうしゅだん)でありましょう。しかし、日本に対するそのような攻撃(こうげき)は、少なくとも、戦後、日本に課される条件(じょうけん)を詳細(しょうさい)に公表するとともに、日本に降伏(こうふく)の機会を与(あた)えるのでなければ、正当化しえないと考えます。
そのような公表をつうじて、日本国民に対し、自国での平和的な生活の営(いとな)みを期待しうる保証(ほしょう)を与(あた)えたうえで、なおも日本が降伏(こうふく)を拒(こば)んだならば、わが国は、場合(ばあい)によっては原子爆弾(ばくだん)の使用に訴(うった)えざるをえなくなるかもしれません。しかし、そのような手段(しゅだん)は、それにともなう道徳的責任(どうとくてきせきにん)を真剣(しんけん)に顧慮(こりょ)することなくしては、いかなる時点においても訴(うった)えるべきものではありません。
原子力の開発(かいはつ)は、諸国(しょこく)に新しい破壊手段(はかいしゅだん)をもたらすことでしょう。われわれが意のままに使用しうる原子爆弾(ばくだん)は、この方向へ踏み出す第一歩にすぎず、将来(しょうらい)の開発過程(かいはつかてい)で可能(かのう)となる破壊力(はかいりょく)は、ほとんど無限(むげん)であります。したがって、新たに解放(かいほう)されたこの自然の力を破壊(はかい)の目的で使用する前例をつくる国は、想像(そうぞう)を絶(ぜっ)する規模(きぼ)の破壊(はかい)の時代へ扉(とびら)を開くことについて責任を負わなければならないでしょう。
今の戦争が終結したのち、互(たが)いに対抗(たいこう)する諸国(しょこく)がこの新しい破壊手段(はかいしゅだん)を自由勝手(かって)に保有(ほゆう)しうるような状況(じょうきょう)を放置し、世界に蔓延(まんえん)させるならば、米国のみならず他の諸国(しょこく)の都市も、突如(とつじょ)として壊滅(かいめつ)する危険(きけん)に常にさらされることになるでしょう。このような世界状況(じょうきょう)が生じないようにするため、精神的(せいしんてき)であると物質的(ぶっしつてき)であるとを問わず、米国のすべての力を結集しなければなりません。今やこれを防止(ぼうし)することは、米国が原子力の分野に占(し)めている優位(ゆうい)のゆえに、とくに米国に課された厳粛(げんしゅく)なる責任(せきにん)であります。
この優位(ゆうい)が米国に与(あた)えている新しい実質的(じっしつてき)な力は、それと同時に自制(じせい)の義務(ぎむ)をも負わせるものであり、もしわれわれがこの義務(ぎむ)に背(そむ)くならば、われわれの道徳的(どうとくてき)立場は、世界の人びとの目にも、そして、われわれ自身の目にも、説得力のないものとして映(うつ)るでしょう。その結果、解(と)き放たれた破壊力(はかいりょく)を制御(せいぎょ)するというわれわれの責任(せきにん)を果(は)たすことは、いっそう困難(こんなん)になるでしょう。
以上にかんがみ、われわれ下記に署名(しょめい)したものは、つつしんで次のことを要請(ようせい)いたします。第一に、日本側に課される条件(じょうけん)を詳細(しょうさい)に公表し、日本側がその条件(じょうけん)を知ったうえで、なおも降伏(こうふく)を拒(こば)んだ場合(ばあい)以外(いがい)は、この戦争において米国が原子爆弾(ばくだん)の使用に訴(うった)えないことを決定するため、最高司令官たる閣下(かっか)の権限(けんげん)を行使されること、第二として、そのような場合(ばあい)、原子爆弾(ばくだん)を使用すべきか否(いな)かについては、この要請書(ようせいしょ)に示した考慮(こうりょ)事項(じこう)のみならず、使用にともなう他のあらゆる道徳的(どうとくてき)責任(せきにん)にかんがみ、閣下(かっか)が決定されること。

原爆(げんばく)の投下命令書

1945年7月25日
米国陸軍戦略(せんりゃく)航空隊司令官(しれいかん)カール・スパーツ将軍(しょうぐん)あて。

  1. 第20航空軍第509混成(こんせい)部隊は、1945年8月3日ごろ以降(いこう)において有視界爆撃(ゆうしかいばくげき)が可能(かのう)な天候になり次第(しだい)、広島、小倉、新潟(にいがた)、長崎(ながさき)のいずれかを目標として、最初の特殊爆弾(とくしゅばくだん)を投下する。爆弾(ばくだん)の爆発効果(ばくはつこうか)を観測(かんそく)・記録する陸軍省の軍人および民間人の科学要員を運ぶため、特別の航空機が爆弾搭載機(ばくだんとうさいき)に随行(ずいこう)する。観測機(かんそくき)は、爆発(ばくはつ)点から数マイルの距離(きょり)を保つ。
  2. 追加分の爆弾(ばくだん)は、計画担当者(たんとうしゃ)による準備(じゅんび)が整い次第(しだい)、前記の目標に対して投下される。前記以外の目標に関しては、あらためて指示(しじ)を発(はっ)する。
  3. 日本に対するこの兵器の使用に関するいっさいの情報(じょうほう)の公表は、陸軍長官ならびに米国大統領(だいとうりょう)にゆだねられる。作戦の現地指揮官(げんちしきかん)は、事前の特別許可(きょか)なしに、当該(とうがい)問題に関するいかなる公式発表(こうしきはっぴょう)または情報(じょうほう)の公開をも行わない。いかなるニュース記事も、陸軍省に送って特別の許可(きょか)を求めるものとする。
  4. 前記の指令は、陸軍長官ならびに米国陸軍参謀総長(さんぼうそうちょう)の指示(しじ)および承認(しょうにん)のもとに貴官(きかん)に発(はっ)せられるものである。マッカーサー将軍(しょうぐん)およびにミニッツ提督(ていとく)の参考に供(きょう)するため、この指令の写し各一部を貴官(きかん)から両名に直接渡(わた)されたい。