2 サダコさん2さい
1945(昭和20)年8月6日
世界ではじめての原子爆弾(ばくだん)が広島の上空でさくれつしました。
サダコさん一家も被爆(ひばく)しました。

それは、暑い夏の朝だった。
1945(昭和20)年ころになると、日本各地の都市にアメリカの飛行機が飛んできてばくだんを落とすようになりました。空しゅうです。広島にも飛行機が飛んできて、そのたびにサイレンが鳴り、人々はぼう空ごうにひなんしました。
ぼう空ごう
空しゅうのときひなんするために、
庭などにつくられた地下室。
8月6日の朝も、7時すぎにけいかいけいほうのサイレンが鳴りましたが、しばらくしてかいじょされ、人々はいつもの生活にもどりました。 サダコさんとおばあさん、お母さん、お兄さんの4人は、朝ごはんを食べていました。
そのときでした。

灯火管せい用のおおい
室内の灯りを外にもらさないために、
電灯を黒いぬのなどのカバーでおおった。
ぼう空ずきん
空しゅうけいほうにそなえて、
頭をまもるぼう空ずきんは
いつも身近に用意していた。

ちゃぶ台
あしが折りたためるようになっている。
食事が終わったらあしをたたんで片づけておく。
ごはん
米が手にはいりにくくなって、
かわりにサツマイモのパンや大豆なども主食だった。
庭でサツマイモや野菜を育てる家も多かった。
「ピカッ」と、目もくらむような光が広がり、それにつづいてすさまじいばく風が家族をおそいました。

黒い雨がふってきた。
家のかべがくずれ、サダコさんたちはとばされました。お兄さんとおばあさんはけがをしましたが、サダコさんとお母さんはきせき的にも無事でした。そして、なんとかこわれた家からそろってにげだすことができました。サダコさんたちは、川のほうへ逃げました。でも、わすれものを取りに家にひきかえしたおばあさんは、そのままもどってきませんでした。
あちらこちらから火事が出ました。火事をさけるために小さな古い船にのせてもらいました。サダコさんのお兄さんはこのとき4さいでしたが、船に入ってくる水を一生けん命くみだしたことを覚えているそうです。
そのと中、雨がふってきました。しかも、その雨は、サダコさんの白いきものに点々と黒いシミをつけました。

おばあさんがなくなった。
お父さんは、陸軍病院のそかいによって、広島県北部の三次(みよし)市へいっていました。しかし、きゅうえん隊として、広島に帰り、被爆(ひばく)した人々のためにテントを立てたり、けがをした人を助けたりしました。9日になって、やっと時間のとれたお父さんは、焼けた自分の家にもどり、おばあさんがなくなったことを知りました。