原爆(げんばく)のひ害
被爆(ひばく)
1945(昭和20)年8月6日午前8時15分に広島へ原子爆弾(げんしばくだん)が投下され地上600mの上空でさくれつしました。
原爆(げんばく)によってなくなった人の数は正かくにはわかりませんが、1945(昭和20)年12月末までに約14万人(±1万人)がなくなったとすい定されています。
被爆(ひばく)後の広島市のようすを見る
被爆(ひばく)2カ月後の広島
さつえい:ハーバート・F・オースチン Jr
寄ぞう:ブレッド・M・オースチン
所ぞう:広島平和記念資料館
原爆(げんばく)ひ害の特ちょう
原子ばくだんは、それまでのばくだんとはまったくちがっていました。
ばく発のしゅん間、多量の放射線(ほうしゃせん)と熱線が発生しました。そして、温度が上がって周囲の空気がぼうちょうし、すさまじいばく風をまきおこしたのです。さらに、これらがふくざつに関係しあって、ひ害をさらに大きくしました。
この放射線(ほうしゃせん)、熱線、ばく風の三つのエネルギーによって、しゅん間的に、そして無差別に、大量のはかい・さつりくが引き起こされました。
原爆(げんばく)によって発生したエネルギーの内わけ

放射線(ほうしゃせん)によるひ害
原子爆弾(げんしばくだん)が、それまでの火薬をばく発させるばくだんとちがうのは、ばく発したときのエネルギーがケタはずれに大きいことと、放射線(ほうしゃせん)を出すことです。
広島には、原爆(げんばく)につめられたウランのかく分れつの開始からばく発後1分以内に「初期放射線(ほうしゃせん)」が大量にふりそそぎました。これが人の体に大きなひ害をもたらしたのです。特に、ばく心地から1キロメートル以内で直接放射線(ほうしゃせん)を受けた人は、ほとんどなくなりました。
さらに、そのあとには「残りゅう放射線(ほうしゃせん)」がありました。このため、直接ひばくしなかった人でも、きゅうえん・きゅうご活動や肉親などをさがすためにばく心地近くに行って放射線(ほうしゃせん)を受け、なかには病気になったりなくなったりする人も出ました。
残りゅう放射線(ほうしゃせん)とは
かく分れつで生まれた放しゃ性物しつや分れつしなかったウランから出る放射線(ほうしゃせん)と、初期放射線(ほうしゃせん)を受けたことで(土やがれきをこう成する原子の)原子かくが反のうをおこして生まれた放しゃ性物しつが出す放射線(ほうしゃせん)のことです。
死のはん点の出た兵士
ばく心地から1キロメートル以内の家の中で被爆(ひばく)した人。10日以上たってからかみの毛がぬけはじめ、歯ぐきから血が出たりするようになりました。やがて皮ふの下に血がたまってむらさき色のはん点となって、歯ぐきからの血が止まらなくなり、ひばく後1カ月近くたってなくなりました。

さつえい:木村権一
黒い雨
原爆(げんばく)のばく発後、広島市内には大火さいが発生し、ほのおからのがれる人たちの上にねばり気のある「黒い雨」がふりました。雨がふった時間や地いきについてはさまざまなしょう言があります。右の地図の赤線でしめすはんいは、2008(平成20)年度に広島市などが行った調さによるものです。
この雨の中には、ばく発のときにまきあげられたどろやチリ、火事のススなどのほかに放しゃ性物しつがふくまれていました。このため、ばく心地から遠くはなれた地いきの人の中にも放射線(ほうしゃせん)によるしょう害があらわれました。

熱線によるひ害
原子爆弾(げんしばくだん)がばく発するときにできる火の球の温度は、中心部でセ氏数百万度にたっし、1秒後に半径200mをこえる大きさになりました。そこから出たひじょうに強い熱線によって、ばく心地では地表の温度が3,000~4,000℃にたっしました。(太陽の表面温度は5,700℃、鉄がとける温度は1,500℃です)
ヤケドをおった女子学生
1945(昭和20)年8月9〜12日
強れつな熱線をあびた人は重いヤケドをおいました。ばく心地から約1.2キロメートル以内で、さえぎるものがないまま熱線をあびた人は、体の内部組しきにまで大きなしょう害を受けて、ほとんどがそく死か数日のうちになくなりました。

さつえい:宮武甫
ていきょう:朝日新聞社
朝日新聞社に無だんで 転さいすることはできません。
ハラマキの部分だけ熱線から守られた男せい
1945(昭和20)年8月7日
この男せいは、ばく心地から1キロメートル以内で被爆(ひばく)し、ハラマキをしていた部分だけをのこして全身がひどいヤケドをおいました。

さつえい:尾糠政美
着物のもようがはだに焼きついた人
1945(昭和20)年8月15日ごろ
色のうすい部分よりもこい部分の方が熱線をきゅうしゅうするせいしつをもつため、もようのこい色の部分がはだに焼きつき、やけどになりました。

さつえい:木村権一
橋のらんかんのかげが焼きついた道路
1945(昭和20)年11月ごろ
熱線が道路のアスファルトを黒くこがしましたが、橋のらんかんの部分だけが熱線をさえぎったため、かげが白く残ったものです。

さつえい:米軍
ばく風によるひ害
ばく発のしゅん間、熱によって空気が急にふくらんで、数十万気きあつというものすごいあつ力をもったばく風が発生しました。ばく風の強さは、ばく心地から500メートルの場所では、1メートル四方の広さに11トンというきょ大なもので、ほとんどすべての建物がおしつぶされ、人はふき飛ばされたり建物の下じきになってなくなりました。
原爆(げんばく)によるばく風のしくみ
- 原爆(げんばく)がばく発する
- 高温の火の球が発生して周辺の空気がすごいいきおいでぼうちょうする。
- 空気のかべができもうスピードで広がる。
- このあとに空気が流れこんで強れつなばく風となる
- ばく風が広がるにつれてばく心地のあたりは急に気きあつがうすくなりあつ力が下がる。
- 外に向かってふき出した空気がぎゃくにばく心地に向かってすごいいきおいでふきこむ。(負あつ)
- ばく風とふきもどしの風でひ害が広がった。
大きく曲がった鉄こつのはり(ばく心地から330m)
強れつなばく風の力によって、広島富国館(ふこくかん)ビル最上階の天井の鉄こつは大きく曲がってしまいました。

きぞう:富国生命保険相互会社
体の中から出てきたガラスすさまじいばく風によってガラスがこまかくくだけて人の体につきささりました。げんざいでも体の中にガラスのはへんが残っている人もいます。


体内から取り出されたガラスの破片
きぞう:藤川ヨシ
ばく風によって屋根が落ちた建物(ばく心地から約360m)帝国銀行(ていこくぎんこう)広島支店の内部。ばく風で天井もゆかもぬけ落ちてしまいました。

さつえい:川本俊雄
高熱火さい
原子ばくだんのさくれつと同時に出た熱線でばく心地に近い家などが自然発火したり、ばく風でたおれた家の下から台所の火がもえあがったりして、あちらこちらで火事がおきました。そして、広島のまちは、午前10時ごろから午後2~3時をちょう点に、一日中すさまじいほのおに包まれました。ばく心地から半径2キロメートル以内の地いきはことごとく焼きつくされ、ばく風でたおれた家の下じきになり、生きながら焼かれてなくなった人もたくさんいました。
ひ害のようす

さつえい:米軍
所ぞう:アメリカ国立公文書館
一面、焼け野原となった広島写真の中央にあるのが、原爆(げんばく)投下の目標となったT字がたの相生橋。橋の上側の、川に囲まれた地いきが中島地区(げんざいの平和記念公園)

さつえい:米軍
ヒロシマの空
サダコ被爆(ひばく)
矢印を点めつ部分に重ねると説明や写真がでます。
家が焼かれ、おばあさんがなくなった。
サダコさんの家の周辺でも、ばく発によって多くの家がたおれました。サダコさんの家も大きくかたむきました。そして、被爆(ひばく)のあとあちこちから発生した火さいが大火事となり、サダコさんの家も、佐々木理髪店(ささきりはつてん)も焼けてしまいました。 家にひきかえしたおばあさんは、この火事にまきこまれてなくなりました。
また、お母さんといっしょに理はつ店をしていたチズ子おばさんのむすめ、フジエさんは、学校から建物をこわす作業にでかけていて、被爆(ひばく)しました。こう外のお寺にしゅうようされましたが、サダコさんのお父さんがかけつけたときにはすでになくなっていました。
原爆(げんばく)によって、12人の親せきがなくなりました。 家がなくなったため、サダコさん一家は、広島県北部のお母さんの実家でくらすことになりました。
サダコさん一家が黒い雨にうたれた場所
原爆(げんばく)の後の大火事におわれて、サダコさんとお母さん、お兄さんは川ににげました。岸辺につくと、こわれかけた小ぶねにのせてもらって川のまん中に出ました。そのとき、放しゃのうをふくんだ黒い雨がパラパラとふってきました。

ひばく後のサダコさんの家のあたり
中央のアーチ型のらんかん橋は横川橋。この写真の右上のあたりが、サダコさんが住んでいたくすの木町です。

ばく心地から1.4kmはなれた所から西の方を見たところ
さつえい:尾木正己
きゅうえんきゅうご活動
場所も人も医薬品も不足していた。
原爆(げんばく)はいっしゅんにして広島の中心部をはかいしました。県ちょうや市役所、けい察などの公共しせつもかいめつ状態で、まちは大こんらんになりました。
しかし、ひばく直後からひ害の少なかった陸軍の部隊を中心に、ひ害にあった人たちのためのきゅうえんやきゅうごの活動がはじめられました。
焼けなかった病院や学校はかせつのきゅうご所となり、ひばくした多くの市民たちが治りょうにおとずれました。こうした活動は戦争が終わった後もつづきましたが、もともと不足していた医薬品はどんどん少なくなり、十分な治りょうができないじょうたいになってしまいました。
こうした中、赤十字国さい委員会の日本での主席代表としてやってきたマルセル・ジュノー博士のおかげで、大量の医薬品がとどけられ、治りょうをつづけることができました。
マルセル・ジュノー博士のおかげでていきょうされた医薬品の一部

きぞう:松永 勝
所ぞう:広島平和記念資料館
きゅうご所のようす

絵:高原良雄