5 「原爆(げんばく)の子の像(ぞう)」たん生
1956(昭和31)年~
サダコさんの死は、竹組のみんなにとって大きなショックでした。
竹組の中には、サダコさんと同じように原爆(げんばく)を受けた友だちも多かったのです。
みんなの心の中には不安な気分と何もできなかったくやしさがこみあげてきました。

自分たちにできることは?
サダコさんがなくなってから、竹組で同級生だったみんなは、「サダコさんのために自分たちで何かしたい」と話していました。友だちなのに、何も助けてあげられなかったというくやしさが、みんなのむねにシコリとなっていたのです。
みんなは、話しあいました。
「サダコちゃんのおはかをたてられないだろうか」とだれかが言いました。「近くにおはかがあったら、毎日、おまいりできるでしょう」

同級生がたちあがった。
「佐々木禎子(ささきさだこ)さんだけじゃない、原爆(げんばく)のぎせいになった子どもたちみんなのために、平和記念公園にぞうをつくってはどうだろう」
「自分たちの力でそんなことができるのだろうか」と、みんな不安でした。でも、「サダコさんのために何かしたい」、「原爆(げんばく)なんかなくしてしまいたい」という気持ちが、みんなを動かしました。
日本中の子どもが協力した。
サダコさんの同級生たちは、ぼ金を集めて、ぞうを作ろうという運動をはじめました。みんなのうったえは、思いがけない反きょうをまきおこしました。全国の3000校をこえる学校から「ぞうの建せつに役立ててください」という手紙とぼ金が送られてきたのです。
1957(昭和32)年1月、平和記念公園のなかに「原爆(げんばく)の子の像(ぞう)」をたてることが正式に決まりました。
ぞうが完成したのは、佐々木禎子(ささきさだこ)さんがなくなってから2年後、1958(昭和33)年のこどもの日です。

サダコさんをはじめ、なくなったこどもたちはかえってはこないけど、少なくとも、「ふたたび、原爆(げんばく)によって子どもたちがぎせいになることのないように」というきもちが、ぞうの前におかれた石のひにきざまれています。
これはぼくらの叫(さけ)びです
これは私(わたし)たちの祈(いの)りです
世界に平和をきずくための