文字サイズ
日本語
English
サダコと原爆(げんばく)
もっと知りたい

ビラ配り

全国中学校校長会会場前でのビラ配り

1955(昭和30)年11月12日/広島市公会堂
ていきょう:川野登美子

そのころ、サダコさんをはじめ原爆(げんばく)でなくなったすべての子どものれいをなぐさめるための記念のぞうをつくらないかという話を持ちかけられた「団(だん)結の会」は、ちょうど開かれていた全国中学校校長会の会場前で手作りの2000まいのビラを配って、全国の中学校に、ぞうを建てることにさん成してくれるようによびかけました。よびかけ人は「広島市立幟町(のぼりまち)中学1年生故(こ)佐々木禎子(さだこ)級友一同」と書きました。

下の写真をクリックしてください。大きい画ぞうと説明が表じされます。

禎子(さだこ)さんの同級生が校長先生たちに配ったビラきぞう:山本清司

「原爆(げんばく)の子の像(ぞう)」建立と禎子(さだこ)さんの死を伝える幟町(のぼりまち)中学新聞きぞう:豊田清史

児童・生徒の会結成

「広島平和をきずく児童・生徒の会」結成

1956(昭和31)年1月18日/幟町(のぼりまち)中学校
ていきょう:中国新聞社

幟町(のぼりまち)中学校には、運動のしゅしにさん同して全国からたくさんのぼ金が送られてくるようになりました。反きょうの大きさにおどろいた幟町(のぼりまち)中学校では、ぞうの建立を通じて原爆(げんばく)の実たいを知り平和について考えようと市内の小・中・高校によびかけ、やがて市内各学校の生徒会で組しきされた「広島平和をきずく児童・生徒の会」が結成されました。

下の写真をクリックしてください。大きい画ぞうと説明が表じされます。

北海道からの協力をよびかける新聞記事きぞう:豊田清史

西芦別(にしあしべつ)中学校生徒会きぞう:豊田清史

進むぼ金活動

1956(昭和31)年4月8日/福屋百貨店前
ていきょう:中国新聞社

「広島平和をきずく児童・生徒の会」を中心に「団(だん)結の会」のメンバーも加わってぼ金活動は進められ、その年の4月1日には全国の学校へ向けてぼ金をよびかける「しゅ意書」を発送するなど、本かく的なぼ金活動を開始しました。この運動は、すでに新聞、ラジオなどでほう道され始めていたこともあり、全国の学校からの反のうはす早いものでした。禎子(さだこ)さんの死から1年後の10月には平和記念公園へせっ置することが決まり、ぞうの建立はげん実のものになりました。

下の写真をクリックしてください。大きい画ぞうと説明が表じされます。

ぼ金のときに配ったビラきぞう:新江新一

同級生によって作られた追とう文集「こけし」(表紙)所ぞう:原爆(げんばく)資料保存会

「こけし」をせい作したころの同級生きぞう:豊田清史

禎子(さだこ)さんをしょうかいした記事所ぞう:大阪府立中央図書館国さい児童文学館

一周き法要

せい大にとり行われた一周き法要

1956(昭和31)年10月21日/真光寺
ていきょう:中国新聞社

禎子(さだこ)さんの死から約1年、ぼ金活動は順調に進み、10月には平和記念公園へせっ置することが決まって、ぞうの建立はげん実のものになりました。ぞうの完成を待つだけとなったこの時期、「広島平和をきずく児童・生徒の会」は、ぞうが建立された後の次の活動目標をさがし始めていました。

下の写真をクリックしてください。大きい画ぞうと説明が表じされます。

「広島平和をきずく児童・生徒の会」の事む所きぞう:豊田清史

ぞうのせい作者が決定きぞう:豊田清史

平和をきずく会ニュース第1号きぞう:豊田清史

ぞうの建立予定地きぞう:豊田清史

禎子さんに折りづるを送ろうとよびかける記事ていきょう:光文社
所ぞう:熊本/菊陽町図書館

集まった折りづるをれい前にそなえるようすを伝える新聞記事ていきょう:中国新聞社

ぞうの石こうもけいきぞう:豊田清史

菊池先生のアトリエをほう問きぞう:豊田清史

ぞうの最終案きぞう:豊田清史

広島での工事風景きぞう:豊田清史

「原爆(げんばく)の子の像(ぞう)」

「原爆(げんばく)の子の像(ぞう)」のじょまく式

1958(昭和33)年5月5日/平和記念公園
ていきょう:中国新聞社

折りづるをかかげ持つ少女

1958(昭和33)年5月5日、平和記念公園で「原爆(げんばく)の子の像(ぞう)」のじょまく式が行われました。広島市内の小・中・高校生をはじめ、全国からしょう待された児童・生徒やサダコさんの家族など約500人が参加しました。
ぞう建立の運動を始めて約2年半。多くの人の努力やぜん意によってようやく完成したぞうを、人々はそれぞれの思いで見つめていました。この運動の原点である同級生の一人は、子のぞうは禎子(さだこ)さんそのものだったと言います。
「原爆(げんばく)の子の像(ぞう)」は、高さが9メートルもあります。3本足の台ざと、その上に立つ「折りづるを高くかかげた少女」のブロンズぞうのデザインは、とても印しょう的で、平和記念公園のひとつのシンボルとなっています。また、台ざの側面にも、少年と少女のブロンズぞうがあしらわれています。

下の写真をクリックしてください。大きい画ぞうと説明が表じされます。

会報「平和」第8号きぞう:豊田清史

じょまく式式次第きぞう:小倉馨

映画「千羽鶴(せんばづる)」リーフレットきぞう:豊田清史

会報「平和」第10号きぞう:豊田清史

じょまくきぞう:河本一郎

禎子(さだこ)さんの同級生が校長先生たちにくばったビラ

1955(昭和30)年11月12日(禎子さんの死後18日目)
きぞう:山本清司

同級生たちの「原爆(げんばく)の子のぞう」をつくりたいという願いをこめたビラは、校長先生の手にわたり、早くも月末にはぼ金がとどきはじめました。

「原爆(げんばく)の子のぞう」建立と禎子(さだこ)さんの死を伝える幟町(のぼりまち)中学新聞

1955(昭和30)年12月24日(禎子さんの死後60日目)発行
きぞう:豊田清史

田中校長によるぞう建立のよびかけがけいさいされ、活動が形をととのえていくようすがうかがえます。禎子さんが千羽づるを折りつつなくなったエピソードもしょうかいされています。

北海道からの協力を呼びかける新聞記事

1956(昭和31)年1月17日(禎子さんの死後83日目)発行
「北海道新聞」けいさい
きぞう:豊田清史

校長会に参加した羽二生(はにう)武夫西芦別(にしあしべつ)中学校校長が、禎子さんの同級生・山重真喜子さんの手紙をまじえて、北海道からの協力をよびかけました。

西芦別(にしあしべつ)中学校生徒会

1957(昭和32)8月5日(禎子さんの死後649日目)発行
「平和」第5号けいさい
きぞう:豊田清史

同校は学校をあげてしえんし、じょまく式にも代表が参加しました。

ぼ金のときにくばったビラ

1957(昭和32)年頃
きぞう:新江新一

「こけし」をせい作したころの同級生

1957(昭和32)年ごろ
きぞう:豊田清史

幟町(のぼりまち)中学校の屋上でさつえい。同級生の「こころが、今日の私たち広島平和をきずく児童・生徒の会へと発展してきたので、いわばこけしの力が原動力となってこの会が結成されました」
1957(昭和32)年8月5日発行 きずく会の会報「平和第5号」より

同級生によって作られた追とう文集「こけし」(表紙)

1956(昭和31)年7月25日(禎子さんの死後273日目)発行
所ぞう:原爆資料保存会

禎子(さだこ)さんの同級生が制作した追とう文集。「こけし」の名の由来は、禎子さんが入院していたとき同級生が彼女の好きなこけしをよくお見まいに持っていったことから。

禎子(さだこ)さんをしょうかいした記事

1956(昭和31)年10月1日(禎子さんの死後341日目)発行
小学館「女学生の友」1956(昭和31)年10月号けいさい
所ぞう:大阪府立中央図書館国さい児童文学館

禎子さんがなくなって一年後、このころ広く読まれていた少女雑誌「女学生の友」で、禎子さんと千羽づるのことがしょうかいされました。
入院中の禎子さんは「女学生の友」の「おたよりちょうだい」のコーナーで文通相手をさがしました。

「広島平和をきずく児童・生徒の会」の事む所

1957(昭和32)年ごろ 幟町(のぼりまち)中学校図書室
きぞう:豊田清史

右の書だなにひ文の原案がかざられています。1958(昭和33)年3月1日の委員会で議ろんの末、ひ文は今の文章になりました。

ぞうのせい作者が決定

1956(昭和31)年11月28日(禎子さんの死後399日目)本川小学校
きぞう:豊田清史

10月に広島出身の浅野長武国立東京博物館長を通じて、菊池一雄東京芸術大学教授に、ぞうのせい作をお願いしました。菊池先生(中央の立っている男せい)は11月28日に広島に来られ、せい作計画を立てられました。

平和をきずく会ニュース第1号

1957(昭和32)年3月10日(禎子さんの死後502日目)発行
きぞう:豊田清史

ぞうの建立計画が着実に進んでいることがわかります。

ぞうの建立予定地

1957(昭和32)年ごろ平和記念公園
きぞう:豊田清史

禎子(さだこ)さんに折りづるを送ろうとよびかける記事

1957(昭和32)年12月1日(禎子さんの死後768日目)発行
「少女」1957(昭和32)年12月号けいさい
ていきょう:光文社
所ぞう:熊本/菊陽町図書館

このころ少女たちによく読まれていた光文社発行の雑誌「少女」が、ぞうの建立と禎子さんのことをしょうかいし、読者に「折りづるを禎子さんのれい前に送ろう」とよびかけました。
なお、禎子さんは1,000羽以上のツルを折りましたが、映画「千羽鶴(せんばづる)」では643羽としたため、この記事でもその数が使われています。

集まった折りづるをれい前にそなえるようすを伝える新聞記事

1957(昭和32)年12月19日(禎子さんの死後786日目)発行
中国新聞夕刊けいさい
ていきょう:中国新聞社

「パン売りのロバさん」(詞:矢野亮 曲:豊田稔 昭和30年キングレコード)で知られる童よう歌手の近藤圭子さんが、読者代表として20万羽の折りづるを持って広島に来ました。このときのようすは、ざっし「少女」昭和33年2・3月号でしょうかいされ、これによって、禎子さんと千羽づるのことがより広まっていきました。

ぞうの石こうもけい

1957(昭和32)年3月10日(禎子さんの死後502日目)
きぞう:豊田清史

菊池先生が30センチほどのもけいを持って来広されました。当初から折りづるをささげた少女ぞうのデザインでした。

菊池先生のアトリエをほう問

1957(昭和32)年8月14日(禎子さんの死後659日目)
きぞう:豊田清史

きずく会の鉄増(てつます)亘芳(のぶよし)会長と佐々木雅弘委員が菊池先生のアトリエで制作中の4分の1のもけいを見学しました。

ぞうの最終案

1958(昭和33)年1月15日(禎子さんの死後813日目)
きぞう:豊田清史

1958(昭和33)年1月15日から福屋デパートで開さいされた「新制作(しんせいさく)広島会場」で、少女のブロンズぞうがひろうされました。

広島での工事風景

1958(昭和33)年3月23日(禎子さんの死後880日目)
きぞう:豊田清史

1958(昭和33)年3月23日からぞうのすえつけ工事が始まりました。

会報「平和」第8号

1958(昭和33)年5月1日(禎子さんの死後919日目)
きぞう:豊田清史

じょまく式式次第

きぞう:小倉馨

じょまく

1958(昭和33)年5月5日(禎子さんの死後923日目)
きぞう:河本一郎

じょまくのつなを持っているのは禎子さんの弟佐々木栄二君です。

えい画「千羽鶴(せんばづる」リーフレット

きぞう:豊田清史

ぞうの建立にあわせてえい画「千羽鶴」がさつえいされ、1958(昭和33)年6月21日に福屋デパートで試写会が行われました。また、8月にはNHKでラジオドラマが放送されました。

会報「平和」第10号

1959(昭和34)年1月10日発行
きぞう:豊田清史